ありすのお部屋

□フォローの代償
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パラリ、と。

数枚の書類が乾いた音を立ててめくられるたびに、綺麗な形の眉がひっそりと動いていく。

薄い口唇が、不機嫌そうに結ばれて。

シャープな形の眼鏡のフレームからのぞく綺麗な瞳に、剣呑な色がありありと浮かび始めた。

「……」

パラリ、パラリ。

器用そうな長い指が、書類をめくってゆく。

生真面目な仕草をみせるその指先が、いつも虎徹の肌の上を、どんな風に滑らせていくのか知っているだけに、その動きを見つめていると、虎徹は僅かに気恥ずかしを感じてしまう。

ふと、書類をめくるバーナビーの指の動きがとまり。

「はぁ……」

バーナビーの薄い口唇から、深い溜息がもれて、ゆっくりと頭が左右にふられた。

サラサラと豪奢に輝くプラチナブロンドの髪が揺れる。

それはまさに、太陽神アポロンの憂いの表情といったところか。

ついにたまりかねて、虎徹が恐る恐る口を開いた。

「あのさ……バニーちゃん、この書類、そぉんなにまずかったかなぁ?」

エヘヘヘヘ、と苦笑いをしながら、こめかみをぽりぽりとかく虎徹に、バーナビーは眼鏡のフレームの中心を右手の長い中指で軽く持ち上げ、ジロリと虎徹を冷たく睨んだ。

「……この書類のどこの部分がどのようにまずいのか、僕に全部指摘してほしいですか?」

「あー、いや、まずいとこがあるなら、そりゃ教えてもらったほうが、俺としてはありがたいけどさぁ」

でも、この書類、どこをどうみても、完璧だろぉ?

そういって、虎徹は一点の曇りもない自信に満ちた笑顔を、バーナビーへと向けた。

夜空の星さえも覆い隠す、シュテインビルドが誇る、まばゆく煌く夜景さえもが霞んで見えそうなほど、まばゆい虎徹の笑顔に、バーナビーの形の綺麗な眉がわずかに動く。

しかし、それもつかの間で、またバーナビーはブルーローズの氷よりも尚も冷たく、凍るように整った冷たい表情に戻る。

「一体どうやったら、あなたみたいに、何の根拠もなく、絶対に揺るぎない自信を持てるのでしょうね……」

深い溜息をひとつ吐いて、淡々と告げるバーナビーに、虎徹は尚も愛想笑いを重ねた。

「だってよー、このクソ忙しい仕事の中、寝る時間も惜しんで作ったんだぞ?」

クソ忙しい、という言葉をことさら強調する虎徹をサラリと無視して、バーナビーはさらに深い溜息をもらした。

「確かにあなた……いや、僕たちが非常にハードワークであることは認めます。しかし、あなたが先日の事件で先走った行動さえしなければ、その忙しさは今頃半減していたことも、認めざるを得ないでしょうね」

「そ、それをいうなって、バニー……」

もっとも痛いところをつかれ、虎徹は苦い笑いを浮かべた。

深夜にも近いこの時間では、日中には何百人もの人々が業務につくこのアポロンメディアの執務フロアも、今は虎徹とバーナビーの二人きりだ。

先ほど、テレビ番組へゲストとして出演し、本来であれば今日の仕事は終わり、家に戻れるはずであった。

明日も早朝から、スポンサー企業の新表品発表会のゲスト出演から始まり、深夜までぎっしりとスケジュールが詰め込まれている。

正直、オーバーワークもはなはだしい。

しかし、旬の過ぎた落ちぶれヒーローと言われ、人気もいまひとつだった、わずか数ヶ月前とは考えられない忙しさに、虎徹は久しぶりに心身ともに充実の日々を送っている。

仕事も全て順調───といいたいところであったが。

先週、日中のオフィスビルでおこった、とある有名企業に対する、リストラ社員がやけくそでおこした立てこもり事件が発生した。

手製の爆弾を体に巻き、業務中の社員達を人質にオフィスにたてこもった犯人に対し、最初に言い渡されたヒーロー達への指令は、「とりあえず様子見」だった。

犯行は単独。

しかも、手製の爆弾で自らを楯にした、どこからどうみても、自暴自棄な犯行である。

こうしたデータから、人質の命をまず最優先とし、犯人を刺激せず、消耗戦を狙い、油断したところを取り押さえる作戦をヒーロー達へと強いた訳なのだが。

じりじりと経っていく時間にまっさきに痺れを切らしたのは、やはり待つことは性にあわない虎徹だった。

ハンドレットパワーのスピードで勝負を決めて、さっさと犯人を締め上げればいいさ。

止めるバーナビーの言うことを聞かず、虎徹は犯人の一瞬の隙をついて、見事に犯人を取り押さえることに成功した。

だが、しかし、当局は重要なことを見逃していた。

犯人が仕掛けた爆弾は、彼の体に巻きつけたものだけではなかったのだ。

ビルの中核に、逃走用の切り札に隠され仕掛けられていた爆弾の起爆スイッチを、犯人が捕獲されると同時に押してしまった。

爆弾自体は、大した爆破能力はなかったものの、不幸にも設置されていた場所が悪かった。

犯人は無計画にもかかわらず、ビルの一番強度の弱い部分の柱に無意識に仕掛けてしまい、それが連鎖的に破壊を呼び起こし、結果としてシュテルンビルド市内中心に建設された高層ビルは半壊した。

幸いといえることは、犯人立てこもり時にビル内の人々が脱出していたことと、ヒーロー達の迅速な救出により、けが人らしいけが人はほとんどいなかったことであろう。

しかし、結果として、ビルの半壊の責任は当然、命令無視のワイルドタイガーこと、虎徹へと向けられたのだ。

対策書、始末書、市内からの苦情書、そしてビルの各テナントへの謝罪文などなど、アポロンメディアからどっさりと山のように渡された書類を前に、虎徹はただ深い溜息をもらすしかなかった。

だが、ヒーローとはいえ、所詮サラリーマンの身の上である。

嫌なら、辞めてもいいんだよ。

昔ほどはそんな台詞を言われることもなくなりはしたものの、さっさと書類を片付けてしまえ、という無言の圧力はまさに針のむしろで。

そんな虎徹がいきついた先は、相棒であり、今は彼の秘密の恋人である、バーナビーのデスクワーク能力であった。

無論、バーナビーでさえ、最近の超過勤務に、顔には疲労の色が見えてはいるのであるが、虎徹のヘルプサインに、軽い溜息ひとつで快諾し、こうしてテレビ取材用のダークスーツのままで、深夜の残業に付き合ってくれているのである。

だが、とりあえず作成を終えた報告書を数枚見せただけで、バーナビーの表情が、段々と凍りついたように冷たくなっていき、最後には溜息しか漏らさなくなってしまった。

「なんかここをちょっこっと、こう直したらいい、とかさ。適当にアドバイスくれればいいんだって。こんなの適当に書いときゃ……」

「対策書や、始末書の内容そのものはいいんです。問題なのは、虎徹さんの文章ですよ。誤字脱字が多いというのもありますが、一貫性のない言葉、造語、数え上げたら切りがありませんけれど……」

バーナビーは虎徹の台詞を素早くさえぎり、また深くため息をもらした。

要するにバーナビーは、虎徹の作成した報告書の内容云々より、その作成があまりにも雑なことを指摘しているのであった。

「しょうがないだろぉ?俺はもともと、こういう、ちまちましたことが苦手なんだって。……わかってんだろぉ?」

こんなの、辻褄あっていればいいじゃねぇか。

次第に虎徹も、苛立ちが増してきた。

もちろん、何に関しても完璧主義のバーナビーの言いたいこともわかる。

だがしかし、虎徹とてもすでにオーバーワークの身。

その上、慣れない書類仕事を言い渡されて、いい加減我慢の限界だ。

そんな虎徹の苦労を知らないはずがない、相棒の、いや、恋人のバーナビーから、血と汗と努力の書類をけなされて、さすがに虎徹も不機嫌そうに言葉を返した。

「あのなぁ、バニーちゃん。よっく聞けよ?徹夜仕事の後、わずか5時間の睡眠。その後、18時間の過剰勤務だぞ?そんな中、わずか数時間で、この膨大な枚数の報告書を作ったんだ」

睡眠不足もそろそろ限界で、今だって、泥のように床に寝てしまう自信だってある。

「とにかく!俺はやるだけのことはやったぞ。あとは会社が勝手に好きにすればいいさ」

両手を挙げて、虎徹はフロアから出ていこうとした。

「……っ、虎徹さん、あなた、この中途半端な書類をどうするつもりですかっ」

ガタリと、バーナビーは椅子から立ち上がった。

バサリと、虎徹の資料が机の上に散乱する。

「……ったく」

虎徹は溜息をもらして、クルリとふり返ると、つかつかとバーナビーのそばへ近づく。

そして、いきなりバーナビーの眼鏡をつかんで、顔から外し、それをポイと床へと投げた。

「な……にを……」

戸惑うバーナビーを無視し、虎徹はバーナビーのダークスーツからのぞく深いワイレッド色のシャツの襟元を緩め。

そして、バーナビーの首に腕を回すと、綺麗に浮かぶ彼の鎖骨に自分の口唇を寄せて───。

ペロ……っ、と肌をなめ上げた。

「……っ」

バーナビーが、僅かに震えるのを密着した肌で感じて、虎徹はひっそりと笑い、口角を上げてバーナビーの口唇へと自分の口唇を寄せた。

「……お互い、睡眠不足な上、オーバーワークの毎日。……なあ、バニー。完璧主義もわかるけどよ、人間やれることなんて限られているって思わないか?時には妥協も必要……だろ?」

バーナビーの鼻先を掠めてゆく、虎徹の甘い吐息。

寝不足のせいか、少し赤くなった瞳が、まるで熱をもったようにバーナビーをみつめる。

まるで、悪い毒だ。

泥のようにつかれている体にしみていく、甘く悪い毒。

「悪いけど、俺はここでリタイヤするよ……バニー」

合わせられる薄い布地から、互いの熱が伝わる。

虎徹はバーナビーの耳朶に口唇を寄せ、開けたシャツの襟元をそっと指先でなぞる。

「先に帰って、シャワーを浴びて、待ってるから……」

「……虎徹さん……」

睡眠不足の思考に、火傷しそうな熱がこもり。

疲れてだるい体に、痺れが走る。

バーナビーが瞳を揺らし、虎徹を抱きしめようとすると、突然虎徹は体をつき離す。

「というわけで、おじさんはもう、おねむの時間だからさ。……後のフォロー、よろしくたのむよ、バニーちゃんっ!」

適当に、付け足して、直しておいてくれりゃあいいから。

先ほどの、甘い毒を含む笑みから、まるであどけない天使の顔で虎徹は微笑み。

そして素早く身を翻し、フロアを歩きだした。

「あなたは……っ」

怒気を孕んだ声に、おかしそうに肩を揺らして、虎徹は肩越しに振り返った。

「クレームなら、後でゆっくりとベッドの中で聞いてやるよ、悪いな……バニー」

ばいばぁい、と軽く手を振り。

虎徹はバーナビーを置いて、暗がりのフロアの中へと消えていった。

「本当に、あの人は───」

すっかり虎徹によって熱をもたらし始めた体を落ち着かせるように、バーナビーはダークスーツの上着を脱いで、椅子の背もたれにパサリとかけた。

虎徹に押し付けられた書類の山を見て、また深い溜息がもれたが───正直、この程度の報告書の量ならば、仕上げるのに二時間もかからないであろう。

「わかりました。僕はあなたの相棒ですからね。あなたの足りない部分は、僕がフォローしますよ」

床の上に転がった眼鏡を拾い、それをかけると、バーナビーは、椅子をひいて、机に向かう。

長い指をキーボードに走らせると、たちまちディスプレイが文章で埋まっていく。

「無論、フォロー分は、返してもらいますけどね」

バーナビーの薄い口唇に、笑いが浮かぶ。

クレームなら、後でゆっくりとベッドの中で聞いてやるよ。

そんな可愛い台詞を、考えなしに言ったことを、虎徹は後で死ぬほど後悔するのだろう。

いつも後先考えずに行動する、彼の可愛い恋人は、このフォローがどれだけの代償になるのか、今は想像することもなく、熱いシャワーでも浴びているころだろうか。

「だから、詰めが甘いって───言われるんですよ、あなたは」

今も、変わることなく。

その詰めの甘さまでも、愛おしくて。

「高い代償に、なりそうですね……」

バーナビーから、笑いを含んだ言葉が漏れて。

やがて静まり返ったフロアに、キータッチの軽快な音だけが響いていった───。



-END-

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