オフサンプル

□団地妻的、恋の予感
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「んじゃあな、行ってくるぜ」
朝、別に出勤しない俺が起きることもないのだが、自宅待機中自堕落な生活を送り続けるわけにもいかず、生活のリズムは出勤するアントニオに合わせていた。
昔っから簡単な食事くらいなら作るから、朝食は俺がアントニオの分も作る。
出勤していくアントニオを玄関まで送りがてら、自分は動きやすい服に着替えて一緒に玄関を出る。
「行ってらっしゃい、ア・ナ・タ」
なんてふざけて言ってやると、腕に見事な鳥肌を作ったアントニオに気色悪いと殴られた。
「朝から気分悪い」
ブツブツと言いながら肩を怒らせて出勤していく同居人を見送り、俺はそのままランニングに出かける。
元からトレーニングに熱心なほうじゃなかった。ただ、とりあえずなんでもいいから身体を動かしていないと、なまるというか…以外と何もしないというのは気持ちも身体も疲れるものだなと、最近しみじみ思うことだ。早く出勤させてくれないものか。
ブロンズステージでは、シルバーやゴールドのようにこれ見よがしに作られたランニングコースなんてのはない。広い整備された公園もなければ、サイクリングロードのようなものもない。
それでも走っている人間は結構いるもので、住宅街の狭い車道ギリギリを車と自転車を避けながら走っていたり、大通りを人を避けながら走っている。
走る人だけではなく、車や自転車や人もそれに慣れていて、ごちゃごちゃと行きかういろいろなものが、よくうまく交差するものだと感心する程だ。
俺も例に倣って朝から二十キロほどを走ると、家の近所のコーヒースタンドに寄った。ここでコーヒーを買って飲みながら帰り、シャワーを浴びるのが朝の日課だった。
朝は目覚めのブラックで。
と、いつもと同じ注文に笑って答えてくれるスタンドのおばちゃんと談笑していると、数件先にある店に目が行った。
緑の多い公園に面したその店は、朝は軽食を昼は割としっかりした飯を食わせ、夜はバーになるところで、オープンカフェになっている。
その店先の木陰になっているテーブルに、あの例のご近所ハンサムがいたのだ。
風がそよぐと木陰が揺れてあの金髪がキラキラ光るように見える。コーヒーを飲む仕草も優雅で、とてもここがブロンズステージとは思えない、そう、ゴールドのお洒落なカフェのようだった。
「ほら、コーヒー」
「あっああうん、あんがと」
またしても見惚れてしまっていた俺は、スタンドのおばちゃんにつつかれ我に帰るとコーヒーを受け取った。だがその後も視線は再びハンサムのほうへ吸い寄せられるように向いていく。
周りにいる人たち、主に女性だが、視線が自然と集まっているのが傍目からでもよくわかった。
そうだろうなあ、ありゃ見るわ。
帰りに変なのに絡まれないといいけど…まあここからなら家はすぐ近くだし、大丈夫だろうか。
ああいや、これから出勤とかか? これからだと遅い時間な気もしなくもないが、職種によっては遅くはないだろう。とにかくあれだけ目立っていると、ここでは逆に心配になってしまう。
「でもまあ、一応男だし…鍛えてるっぽいしな」
ポツリと呟くと、スタンドのおばちゃんが身を乗り出してきた。
「あそこのイイ男だろう? 顔があんだけ良くってすらっと背が高くって、そのうえへなちょこさが全然ないなんて素敵よねえ」
今の今までいつもと変わらない顔で応対していたおばちゃんは、身を乗り出してカフェのハンサムを見つめながら、頬を赤らめていた。まあ、気持ちはわからなくないが、俺の接客時と違いすぎるだろう。
「それになんといっても品があるよねえ、ブロンズじゃあ見ないわああゆうの」
「やっぱそう思う?」
そうなのだ、どうにもブロンズには合わない雰囲気なのだ。顔がいいという意味ではブロンズだからといって珍しいわけではない。顔の造作と貧富の差には関係はない。
ただ、あのハンサムは雰囲気が何か違うのだ。
「いろいろあんでしょ? ここは事情を抱えた人がいっぱいいるんだから」
ぽわんと目をハートにしながらも、スタンドのおばちゃんはまともなことをさらっと言ってのけた。さすが、スタンドでん十年も人を見ているだけはある。
俺はおばちゃんに、んじゃまた明日と言ってその場を去りながらそうかと考えていた。
どうもブロンズにそぐわないあのハンサムにも、もしかしたらいろいろあったのかもしれないのだ。過去にはゴールドあたりに住んでいたこともあったのかもしれない。だが何か事情があってこんなところまで流れてきたのかもしれない。
それはまるっきりこちらの勝手な想像ではあったが、そんなことを考えているとなんだかとても親しみを感じるものだなとちょっと思った。


そんなこんなで日課のマラソンの終わり時間、いつも行くコーヒースタンドでハンサムをよく見かけるようになった。
そこだけではなく、昼間買い物に出かけていると近所の本屋に居るのを見かけたり、俺がよくいくコーヒーショップでコーヒーを買っているのも見たことがある。
ご近所なのだから見かけるのは当たり前といえば当たり前なのだが、ただ、日中でもよく見かけるのだ。それもあったのだと思う。なにもアイツが俺の人生の中でもっともハンサムだったから目が行ってしまうだけではないと思う。
たぶんだけど。
とにかく、俺は何かのレーダーのように街中であのハンサムをすぐ見つけるようになっていた。それほど、ハンサムの存在に敏感になっていた。
昼間家の近場にいるということは…自宅でできる仕事か、もしくは職場がとても家から近くて、休憩時間に出ているのを見かけているのか。あとは、無職か。
「学生ってこともあるか?」
いまやハンサムレーダーとなっていた俺は、ある日そんなことを考えながらスーパーへの道を歩いていた。
途中、表通りの店の裏手を通っていく。これは長年ここに住んでいるからこそ知っている近道だが、逆に言うと人通りが少ないからあまり安全ではない場所だ。
俺は変なのに絡まれても逃げ切る自身はあったし、そもそも十年も済んでいるとこのあたりの悪がきはだいたい知ってしまっている。本気になるまでもなくのして来た相手だから、よそ者ではない限りそもそも絡まれることもない。
口笛なんかを吹きながらその近道に差し掛かったときだった。奥のほうで穏やかではない声が聞えた。
これはよく知っている雰囲気だ。こんな人目から隠れた場所ではよくあるもの。
誰か絡まれてるな。
そう思った途端、俺は力強く走り出していた。路地を奥までつっきると曲がり角を目指す。そこを曲がったところでよくチンピラが誰かを脅していたり、殴り合いをするところだ。
「おいっ」
角を曲がり怒鳴りつけたときだった。
盛大に宙を舞った大男が、ドスンと派手な音を立てて俺の横に背中から着地した。
「おあ?」
見れば、そこには例のハンサムが二人の若い男に囲まれて立っていたのだ。
ああ、やっぱり目つけられちまったかこのハンサム。
そう思ったのと同時に、妙な違和感を覚えた。ハンサムを囲む若いチンピラ二人が、あきらかに引け腰になっていた。
「おいっお前らいい加減に…え?」
勢いをつけて怒鳴りつけなければこういう連中にの耳には入らない。腹の底から声を出して怒鳴ったとき、チンピラどもははっと我に帰ったようで、慌てて俺のほうへ走ってきた。
なんだよ今度は俺に因縁るけようってのか?
身構えて奴らがるのを待ったが、奴らは俺等には目もくれずに倒れた男を助け起こすとそのまま脱兎のごとく逃げていってしまった。
何なんだ一体と、疑問に思いながら逃げて行った奴らの背を見送っていると、後ろでこほんと咳払いが聞えた。
「あ」
振り返ると、困ったような照れたような顔のハンサムがいた。こういう顔をするとかわいいものなんだな。
「あの、ありがとうございます、ちょっと言いがかりを付けられて困っていたものですから」
乱れた髪を撫で付ける仕草が、きざというよりも照れ隠しのように見えて、思わず俺は微笑んだ。
「いやあ、俺が口出すまでもなかったてえか、あいつふっ飛ばしたのあんただろ?」
俺の横に飛んできたのは結構な体格の男だったが、彼を投げたのはこのハンサムだ。他の若いチンピラではなかった。
「ええ、その…多少ですが心得がありますので…話しだけで済めばよかったのですが」
「ここいらの奴らにゃそんなのは通用しねえから、それにあれなら受身取れれば怪我もしないだろうしな」
最善の防御だろう。ハンサムは腕も立つ、と。どこまでも出来た奴だと関心してしまう。いや、ここは多少でも嫉妬したほうがいいのかもしれないが……しかしここまでできた男だと嫉妬する気もなくなるというものだ。
「んで、なんでこんなところに居るんだ? 見るからに危なさそうだって思わなかったのか?」
説教口調になってしまうのは見逃して欲しい。ブロンズに慣れていないのか、いままで危ない路地など経験したことがないのか、どっちにしても不用意にこんなところへ入った本人にも反省を促さなければならない。
「いくら腕に覚えがあるっていったって、あーあれだ…アレは危ないのに近寄らないって言うだろ?」
「君子危うきに近寄らず、ですか?」
「そうそうそれ」
「あなたはどうして?」
「スーパーに行く近道だからな」
「ではなくて、危ないところだと知っているなら、何故あなたはここを通るんですか?」
「え…だって……」
俺は思わず言葉を飲み込んでいた。
目の前のハンサムは、俺がよくて自分が駄目だといわれるのが納得いかないという顔で……まるで子供のようだった。
こいつ、案外幼いのか?わがままに育ったお坊ちゃんというところか?
「俺はここに住んで長いから、ここいらのチンピラとはだいたい顔見知りなんだよ」
噛んで含むように言い聞かせると、ハンサムは唇を尖らせて言いやがった。
「では、僕も顔見知りになればいいんですよね? 僕を襲っても勝てないということをこのあたりのチンピラに判らせればいいんですよね?」
「お前……」
なんだかむきになって食って掛かってくる出来すぎたハンサムが可愛らしいなんて思うのは可笑しいのだろうか。俺は知らず微笑んでいたらしかった。
「笑わないでください」
ハンサムは、気まずそうに視線を落とした。自分でも子供っぽかったと思っているのか。
「まあいい、さっきのでアンタが強いって宣伝にはなってるしな、ただだから束になってこられる可能性だってあるんだから、気をつけろよ?」
説教口調はやめて、軽い感じでそう言うと、ハンサムも今度は素直にハイと答えた。
「それで、どこ行こうとしてたんだ? まさか迷ったのか?」
「迷ったわけではないのですが……スーパーに行こうと思って」
「へ?スーパー?」
素っ頓狂な声が出ていたと思う。スーパーへは確かに近道だが新参者のこいつがそんなことを知っているとは思えなかったし、逆にそれを知っているくらいこの辺りを知っている者ならばうかつに近寄りはしないからだ。
「その……以前あなたがスーパーの袋を抱えてこの路地から出てきたのを見たことがあるものですから……ここから行けるのかなと」
「だっ! じゃあアンタが絡まれたのって俺のせいかよ」
「いえ、そういうわけでは」
言いにくそうに口元を手で覆うハンサムの仕草は、なんだか本当に可愛くて、今日は随分と役得だなと思ってしまった。
いや男だし。どんなにハンサムでかわいいところがあるっていったって男だし。ときめくなよ俺。
「俺もスーパー向かうところだし、じゃあ案内してやるよ」
ついついそんなことを口走っていた。あ、余計なおせっかいだったかなと思ったが、次の瞬間、花が咲くように嬉しそうに笑ったハンサムに、俺の心臓は全力疾走したあとのようにバクバクと激しくなっていた。
だから、男だっつーの!

それからハンサムを案内して細い路地を歩いた。
このあたりの治安のこと、どのあたりにどんな店があってここはあれがうまいだとか、どこは何が安いだとか、主に待ちの情報だ。
今までも結構あちこちで見かけたから、もうリサーチ済みかもしれないが、適度に話を弾ませるには丁度いい話題だ。
それにはハンサムも気付いたのか、俺が店の話をすると「あ、そこ言ってみたことがあります、美味しかったですね」だの、「それ買いました!安くて驚いたんですけど、いつもあの値段なんですか?」だのとうまくのってきてくれた。
本当は、もっと聞いてみたいことはあった。

どうしてこんなところに住んでいるんだ?
ゴールドあたりに住んでたんじゃねえの?
何の仕事してるの?それとも学生?

でもそれはどれもこれも興味本位すぎる内容で、聞いていいようなことではない。聞いたところで困っていると言われても、アントニオが言うように助けてやれるかどうかもわからない。
ならそんなことは聞くなといわれればそれまでだし、聞かないのが礼儀だ。この辺りでは特に。
だから他愛もない会話でスーパーまでの道のりを過ごした。
細い裏路地からスーパーの入り口すぐ傍の大通りに出た時、それまで建物の影で暗くなっていたハンサムが、ぱっと明るい陽の下にさらされた。
白い透き通るような肌にきらきらと透けるような金色の髪。それに…
今まで近くで見たことがなかったから気付かなかったが、眼鏡に隠れた瞳は緑色だった。
それは薄いブルーを溶かしたような緑。いや、金に近い緑だろうか。
宝石のように透き通った美しい色だった。


<P8〜P14抜粋>

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