聖域は語る
□最終章
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あぁ……
体が重い。
右手が、何かに覆われている。
「千景……!」
懐かしい声……
段々見えてきた、優しい、化粧っ気のない顔……
「母ちゃん……」
呟くと、鼻先から口元が曇った。
なんか俺……マスクみたいの?……着けて、寝てる?
これは夢?――現実?
母は手を伸ばして枕元の何かに触れ、真っ赤な目で再び俺を見つめた。
その後部屋のどこかへ顔を振り向け、お父さん!千景、目を覚ましたよ!と呼びかけると、父が飛んで来て俺の顔を覗き込んだ。
「千景……わかるか?」
「親父……」
涙目で嬉しそうにうなずく父の顔なんて、初めて見た。
二人とも、ちょっと老けた?……正月に会ったから、一年以内には会ってるんだけど。
「せ、先生呼んだから。……傷、痛む?」
「母ちゃん……どうして」
「どうしてって、ここ病院よ」
病院……
俺、どうして。
……あぁ。
刺されたんだ。
憶えてる。死ぬほど痛かった。
夢じゃない。
「あぁ……俺」
「むっ無理にしゃべんなくていいから」
「……ん、別に、しゃべっても痛くないし……」
「麻酔が効いてるだけかもしれないからね」
「そっか……」
目の前に、実家にいるはずの両親。
俺、死ななかった……
智哉……
「智哉、どうしてる?」
「え?」
「ともや」
「えっ、あぁ、柚木くんのこと? お仕事がまだ終わらないみたい。終わったらすぐ来てくれるって」
「そ……」
あぁ、よかった……
あいつ、ちゃんと仕事してるんだ。
「私も動揺してたから、柚木くんと冷静に電話できてなくて……でも彼、お仕事全部キャンセルしたいとか言ってて」
「無理でしょ、それは」
「そう……よね。だから、お仕事終わってからでいいよって言ったの」
「母ちゃん……」
「うん?」
「ありがと」
母は微笑んだまま、小さくうなずいた。
俺には、わかる。
智哉は、すぐに駆けつけたいと思ってくれている。
でも――世界を再び勝ち得た智哉は、俺だけのものじゃない。
みんなのものなんだ……
「あいつは……」
「東京(こっち)で一番そばにいてくれた人ね」
「うん」
「泣いてるような声で、あやまってたよ。柚木くんのせいじゃないのに」
「うん……」
知ってる。
だから俺の夢の中でも泣いてたんだ。
俺に刺さったナイフの刃渡りは意外に短く、抜かれなかったのも幸いし、危険な状態は一度の手術で脱したという。
PTSDの症状も出ていない。
だが手術後の数日間、家族以外の面会を許されず。
許可が出たと思ったら、まずやってきたのは警察だった。
四十歳前後とおぼしき刑事が、二十代半ばの若い刑事を伴って病室に入り、ベッドの傍らの椅子に座った。
角田は逃走中に、大型車にはねられて死んだ。
「捕まるよりも死を選ぶように道路に飛び出した……と、角田を追ってた者たちは一様に言ったよ」
中年刑事は、俺にそう伝えた。
その見解どおりかもしれないし、必死に逃走してただけかもしれない。
決めつけられるほど、俺は角田という人間を知らないのだ。
傷害事件の被疑者死亡となれば、追及の程度などたかが知れてる。
なのに角田の素性から、警察は俺に対しても、暴力団との繋がりがあるのでは、と疑惑を持ったようで。
彼らの姿勢は「被害者をいたわる、形だけの事情聴取に留める」という感じではない。
角田が智哉への傷害でパクられた前科も、ここへ来て蒸し返されたかたちだ。
「ボクシングの柚木智哉くんと、その友人のキミ、角田となんの関係があったんだ?」
俺は迷ったあげく、事実の一端を打ち明けることにした。
「俺、角田に襲われたことがあって……柚木が助けてくれたんです」
「お? 襲われたって、その……」
「レイプされかけました」
若い刑事が咳き込んだ。
中年刑事は特に動揺した様子もなく、さらに質問を続けてくる。
「なぜ襲われた直後に、被害届を出さなかった?」
「未遂だし……訴えても仕方ない。その後のリスクの方がでかいと思ってしまったんです」
「柚木くんが襲われた時……あ、この件は殴打だけども……キミの名前が挙がらなかったのは」
「はい……柚木の気遣いからだと思います。俺を守ってくれようとして」
刑事はフゥッと息をつき、何か言いたげに腕組みをした。
すぐに被害届を出せば、今回の事件は未然に防げたのだろうか。
しかし角田は傷害の前科は数あれど、人を殺したことはなかった。
ならばいずれは出所する。
そして事件が起こってからでないと、警察は動かない。
その現実に、当の刑事も、素人の俺さえも気づいている。
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