聖域は語る
□第三章
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お前の弱みを握ってるんだぞ≠ニ言ってゆすられるくらいの方がマシだった。
俺にとってはその方が。
なんのためらいもなく牙を剥けるから。
なのになんだよアレ……。
『いちばん強ぇお前に逢わせろ!! リングの上で!!』
単なる不良あがりの無冠のボクサーが言うセリフじゃねぇ。
それに……
至近距離で睨み合う楢山と智哉は、まるで俺とはちがう生き物のように見えた。
楢山が「俺と智哉」とはちがう、というのではなく。
俺とあの二人との間に隔たりを感じたのだ。
それが最も俺の不安をかき立てる要素だった。
「つっ立ってないで上がったら」
智哉が呼びかける声を聞いて、俺はハッと我に返る。
彼の部屋に入ったものの、俺は靴を脱ぐのも忘れて考え込んでいたようだ。
あぁ、と返答しながら智哉の声がした方を見上げた。
彼は台所のシンクに被さるように立っている。顔を洗ったらしく、その前髪や顎の辺りからは水が滴り落ちていた。
そういえばシンクを叩く大きな水音がしばらく鳴り響いていた気がする。
俺は慌てて靴を脱ぎ、部屋に上がった。
空気が重い。
智哉はベッドの縁(へり)に体をあずけ、天井を見上げて大きく息をついた。
ローテーブルを隔てた位置に座っていた俺は、彼の無防備に反った首筋に向かって問いかける。
「なんか、荷造りするって心境じゃなくね?」
「……うん」
目を瞑ったままそう答える智哉は今にも眠ってしまいそうだ。
しばらくして彼は体を起こすと、唐突に言葉を発した。
「相手が憎くて殴るのは、もうボクシングじゃない。楢山の言ってることは無茶苦茶だ」
さっき俺が同意を求めた時すぐにそう返してくれれば、無駄に不安がらずに済んだんだぞ?
……まぁいいや。
俺は安堵で笑みがこぼれるのを抑え切れなかった。
「そぉだよぉ。無茶苦茶だよなっ」
そんな俺を智哉は真顔で見つめる。
なんだよ。ヘタに整ってるお前の真顔はちょっと怖いんだよ。
冗談半分で、そう口に出そうとした矢先。
「冷静なんだね。他の男にキスされたのに」
その一際(ひときわ)低い声音に、俺の心臓は跳ね上がった。
「お、俺がよっぽど気に入らねんだろ」
「……でも……嫌いな相手にキスなんかするか?」
だからわかんねぇっつの。あんなヤツの考えてること。
「……キスじゃねぇよ。殴られたんだよ。拳でじゃねぇけど!」
なんでお前はキスされたなんて認めてんだよ!
俺は認めたくねぇほどヤなんだよ!
智哉が前傾姿勢になり、俺の唇に親指で触れてきた。
思わず顔を引く。
すると彼は一瞬動揺したかに見えたが、すぐに獰猛な光をその目に宿してつぶやいた。
「唇……敏感だね」
「え……だ、だって驚いて……」
「あいつのキスにも感じた?」
「!」
感じねぇよ!
俺は目を見開き、必死で首を左右に振った。
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