そばにいられるだけでいいのに
□第四章〜約束
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『柚木のボクサーとしての地位がどうとかよりも……』
俺と毎日ヤれてるのが一番シャクだ、という意味のことを角田は言った。
俺はヤツの言葉を真に受けた。それが間違いだった。
どうりで音沙汰がなかったはずだ。ボクシング誌を扱っている出版社は僅かだし、本気で俺が目当てならコンタクトをとるのは難しいことじゃない。
柚木を失墜させること。
きっと柚木に殴られた瞬間から、角田の真の狙いはそこに変わった。
それに気づけなかったのが歯がゆい。
だからせめて事件当日の不透明な部分を知り、柚木を傷つけそうな破片が残っていれば取り除く。
そうすることで俺は安心したかった。
「春海、お前も行くか?」
世界ライト級タイトルマッチの二日前。
調印式と記者会見は当初の予定どおり行われることになり、武田さんがその会場に向かう前に声をかけてくれた。
世界戦の当日ならば、俺も取材に同行する予定になってはいる。
今月の興行の中では最も大きいといっていいし、編集長直々の命(めい)を受けてのことだ。
「いえ、今日は俺は……」
「つらいか?」
「そうじゃないんです。都合が悪いだけで……すみません」
「いや、謝ることねぇよ。お前にはお前の仕事もあるんだ。じゃ、行ってくるな!」
「……行ってらっしゃい!」
俺はデスクに向かうと、自分の携帯から高橋ジムに電話をかけた。
高橋会長の奥さんが出る。
『BOX通信の春海さん? あいにく会長も安西も出払ってて……ほら、柚木の調印式で』
「はい、存じてます。その件ではなくてですね……」
俺は個人的に話を聞きたい人がいた。
阿波野さんだ。
俺は外回りの用事も兼ねて、高橋ジムに出向いた。
先ほどの電話で、阿波野さんがジムワークに来るだいたいの時間を教えてもらっている。
タイミングよく、ジムの玄関前で本人をつかまえることができた。
「ありがとうございました。角田のこと、通報してくれて感謝してます」
俺はそう言って深々と頭を下げた。
「当然のことしただけじゃん。わざわざ足を運んでくれなくても」
阿波野さんは、狼狽に近いほど戸惑っているように見えた。
善良な人だから……
少し前の俺なら、この人の態度をそう取っただろう。
「お願いがあるんです。ちょっと付き合ってもらえますか?」
「俺、これから練習なんだけど」
「ほんのちょっとですから」
阿波野さんは仕方なく了承した。
柚木が暴行を受けたという路地裏。
そこに阿波野さんを連れて行った。
「なんなの?」
彼のいぶかしげな様子に、俺はかまわず話を切り出した。
「また阿波野さんですね」
「は?」
「柚木の不測の事態に出くわしたのは。他の練習生でもトレーナーでもなく」
「……そういうこともあんじゃない?」
「出くわしたというか、よく見つけてくれましたね。繁華街の通りから、かなり奥まった路地裏なのに」
阿波野さんは沈黙し、何か呑み込むようにノドを動かしたのを俺は見逃さなかった。
「俺、考えたんです」
「……なにを」
「阿波野さんは角田が柚木をこの路地裏に引っぱり込むところから、ずっと見てたんじゃないかって」
彼は俺の話にクスリと笑いを漏らす。
次の瞬間には、厳しい目を俺に向けて言った。
「だったら何? 見てすぐに通報したよ! だからあの程度の怪我で済んだんじゃないか」
「ほんとうにそうですか?」
俺が確認すると、彼は一瞬ひるんだ表情をみせた。
「そもそも貴方は、角田が待ち伏せしてるのを知ってた」
「…………」
「角田といつ、何を話したんです?」
俺は正直、半分以上カマをかけていた。
しかし阿波野さんは、ほぼ全てを見透かされてると勘違いしたようだ。
「ま、別にもう、いいや」
開き直ったようにそう言って、当日のことを話し始めた。
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