過去拍手文
□威厳が欲しい
1ページ/2ページ
威厳が欲しい
その日の執務室、軍法会議が近い時間帯になっても我が敬愛する上官のロイ・マスタング大佐は、身支度を整える為にまだ、部屋に篭っていた。
「なんだ。これは……水性ではなかったのか? 落ちないぞ」
「はい。念には念を入れて、新配給の耐水性に強い歌い文句入りのすぺしゃる油性ペンで描きました」
私が先ほどひげを描いたペンを持ったまま、説明すると、
「なっ……」
彼は絶句して固まりその後、
「落ちないと困る……このまま軍議には行けない」
と眉間にしわを寄せて、手鏡を凝視したまま零している。
私はそんな彼を見ながら、元々は彼が言いだしたことなのに、と思っていた。
そう、私は威厳が欲しいと言いだした彼に、ヒゲを描いてあげたのだ。
だって、急には髭は生えてこないのだから。それでも上官の要望に応えるのが副官の務めならば、こうするしかないでしょう? 私はふっくらした頬に似合う。立派なヒゲが描けて、会心の出来だと思っていたけれど……彼はその猫のようなヒゲがお気に召さないようね。
そんな彼の悩み事相談に付き合わされていた部下の一人。ヒゲを蓄えたらシブくなるかも発案者のジャン・ハボック少尉が、落ち込む上官を慰めるように語りかける。
「大佐。似合いますね」
「煩い……」
「この調子なら、チョビ髭もいけるんじゃないっスか?」
「煩い」
「それなら無声映画みたいに、タップダンスを踊ると似合いますよ。大佐」
「……似合わん」
ハイマンス・ブレダ少尉も言葉を添えているのに、それに対し彼は机上に頬杖をついた姿でそっけない受け答えをしている。
大人げない。
それにしても……彼は両人に羨ましく思われているようだ。
意外に好評なのね。
あの二人にも描いてあげようかしら。
ヒゲを。
もう、どうして彼は童顔だからと悩むのかしら、女性からみたら羨ましいことなのにね。
私はため息を一つ突くと、自分の手に試し書きをして、化粧落としの薬液で拭いてみる。
あっさりと落ちた。
大丈夫ね。
毒を使うなら、解毒剤も用意して置くのは初歩的なこと。
だから私は、ヒゲを落とす方法もちゃんと用意してあるのよ。
彼に頼まれるまでは、とそのまま見ていたけれど、そろそろ軍議が始まる時間が近づいていることに気付いた私は、席から立ち上がる。
「二人とも忙しい所、ありがとう。大佐の悩み事も解決したようだから、もう仕事に戻っても大丈夫よ」
そう私は二人に告げて部屋から送り出した後、暗い表情をして手鏡を覗く上官に向かって、
「大丈夫です、大佐。すぐに落ちますから」
と、安心させる為に笑みを添えて声をかける。
「中尉、本当か!?」
続けて私が説明する言葉を聞いた彼は、握りしめていた手鏡を手放すと、心の底からほっとしたのか。
安堵の表情を浮かべた。
『それにね、大佐。童顔は四十すぎまで変わりませんから』
と、私は心の中で独語しながら昔、父親の数少ない知己が家に訪ねて来た時のことを、まざまざと思い出す。
童顔の来客に向かい、昔と少しも変わらないな、と珍しく笑っていた父の姿をだ。
だから諦めてください。
大佐。
大総統くらいのお歳になるまではね。
長い月日の積み重ねを経てしか解決できない問題もあるんですよ。