Reseda

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夜の風にほんのりと含まれる磯の香りをいっぱいに吸いこんで、走る。
藍色の空にぼんやりと浮かぶ白い月。時計の針はもうすぐ十時を指そうとしている。
何となく、先輩の顔が見たくなったんです。こんな非常識な私を先輩は笑うだろう。でも、メールは入れてあるからきっと大丈夫。
走ること数分にして先輩の家が見えてくる。近所なのが悪いんだ。だから、つい余計に甘えてしまう。

悲しみや苛立ち、先輩と居ると嫌なことを全部
忘れられる。こんな人、他に見つからない。唯一無二の存在ってこういう人のことを言うのだろうか。




「…いつも突然だな。なまえは」




そっと頭を撫でてくれる。手のひらから伝わる温度は優しくて。触れる度に私の何かを狂わせていく。
夜風は冷たいのに、先輩の手は温かい。そんなの当たり前のことかもしれない。けど、酷く安心する。
まるで質の悪い薬みたいにゆっくりと全身へと広がっていくそれは、どんどん私を侵食していく。




「どうしてかは、わかんないんですけど」
「かなしいことがあると先輩に会いたくなるんです」




でも、先輩の顔を見ると元気になれるんです。とても、幸せになれるんです。
病気みたいだ。もしかしたら、本当に何かの病気なのかもしれない。私ばっかりが先輩を求めて、必要な分だけ愛を与えてもらう。そうでもしないと、私はこの不安に押しつぶされて消えてしまうそうで。
こんな面倒な女と付き合っている男はどんな気持ちなのかなんて考える余裕もないくらいその感情は強まっていく。夜風は私の体温を下げてくれることもなくただ髪を揺らした。




「…迷惑ですよね」
「そんなことは言ってない」
「…でも、非常識過ぎますよね。こんな時間に会いに来るなんて」
「俺は気にならない」




その優しすぎる言葉の一つ一つが、心に突き刺さっていた刺の一つ一つを消し去ってくれる。
学校のことや家族のこと、友達とのこと。私にとっては辛いことだらけなこの世界から連れ出してくれる人。それはきっと、唯一無二の人。
雲ひとつ無い夜空には痛々しいほどに白い星が点々と見えた。今夜は半月。その月光が私達をこれでもかと晒す。
止めどなく言葉が溢れ出てきて、何か話す度に先輩は頷いてくれて。それだけで心の隙間が埋まっていく。散々離した後、先輩はいつも微笑みながらこう言ってくれる。




「…送ってく。ほら」




静かな声でそう言って、先輩はさり気なく私にジャージの上を羽織らせてくれた。
かなりサイズは大きいけど、今の私には丁度いいくらいの暖かさが確かにあった。また気を遣わせてしまったな、と思うと同時に嬉しくも感じる私。

これは、たった一夜の逢瀬なんて仰々しいものではない。明日になれば会える。そんなことはわかっていたけど。
ぼんやりと中途半端に明るい街灯を通り過ぎていく度に、離れたくないという気持ちが増していく。
人の気持ちは知り得ないからこそ、幸せにもなり、そして怖くもなる。先輩の服の裾をぎゅっと握りしめて、無理やりその感情を押し込めた。









雑音をすべて消してください

(幸せだけど、その中には怯えも混じっている)

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