狭間

□七話
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今日もいつも通り過ぎて行くはずだったし、実際途中まではいつも通りだった。
いつも通りにお客さんとなにか話して早く事を済まそうとした。
何を話したのかは覚えていない。口に出した瞬間から忘れて行った。
覚えているのはキスをされてから。固まった心が少し軽くなったような気がした。
なんなんだろう、この感じ。分からない。

「…ん。」

口を離すと、相手の顔がはっきりと判別できた。
…お客さんも学校の人もどうしても印象に残らなくて人ごみの中ですれ違う人達のように顔がぼんやりとして区別がつかないのに。
この人は、違った。

「やっと俺を見てくれたかい?お嬢ちゃん。」

その人は金髪にアロハシャツ。どこかで会ったことがあるような気がした。


久しぶりに神木悠を見た瞬間やばいと思った。
目がなにも見ていなかった。むしろ見えていないというような感じだった。
ヤバい。こいつはヤバい。事態が悪化している。

「やあお嬢ちゃん。また来ると言ってずいぶん待たせてしまってすまなかったね。…覚えているかい?」

「もちろんですー待ってましたよ?」

やんわりとほほ笑んだ神木悠はさらに可愛くなっていて同時にひどく怖ろしかった。
神木悠は俺の事を覚えていないようだった。
まずいな。前に会った時は無関心なだけでここまで人の判別ができなかった訳じゃないぞ。
一体何があったのか。ストレスの元凶の母親から離れ自分を受け入れる存在を得たのにどうして悪化しているんだ。

「そう。ならよかった。…なにか様子が変わったようだけどなにかあったのかな?」

「そうですか?うーん、あ、最近背が伸びた気がします。ちょっと大人っぽくなりました?それとも小さいほうが好みですか?」

照れたように笑う顔が非常に可愛らしく、演技だと知っている身としては恐怖でしか無かった。鳥肌が立った。
完璧に営業トークだ。神木悠が望んでいるここじゃない世界、異世界について話をした俺にこんな話をするということは完璧に俺の事を忘れている。
人格、記憶が壊れかけている。
まずい。神木悠が壊れたら世界は終わる。今全ての境界は神木悠の管理下にある。
厄介なことに無意識下の管理であり、しかも今は境界が本人には見えないという最悪の状況だ。
まず思い出させなければいけない。このままでは境界があまりに不安定すぎる。
あまり使いたくない手だったがしょうがない。
俺は神木悠にキスをした。長く、長く。恋人とでもするように優しく。
口を離すと神木悠は驚いたように俺を見上げた。
…見えるようになったようだ。

「やっと俺を見てくれたかい?お嬢ちゃん。」

「…あなたは一体なんなんですか。」

驚いた表情から一転し、表情が無に変わった。取り繕う必要が無いと判断したようだ。

「僕は世界の境界の守り人。君を異世界にエスコートする者さ。」

普通ならこんな言葉を信じたりしないだろう。
けれど神木悠は違う。人の嘘と真実が見分けられるのだから。
嘘を見破れなかったときもあるって?それは嘘だと思いたくなかっただけさ。

「そうですか。なら異世界に行く方法も知っていますか?
異世界から来た人が戻れなくて困っているんですがどうやったら帰れますか。」

ほーら、信じている。
嘘ではないと見破っている。
やはり神木悠は完璧だ。

「僕に境界を越える力はないよ。守るだけさ。
でも君は違うんじゃないかな?」

「どういう意味ですか。」

「言葉通り。だって、君が連れて来たんじゃないか。その人を。
君が見えている境界を片っぱしから壊して救いを求めて異世界からリヴァイ兵士長を連れてきただろ。」

神木悠の表情に変化はなかった。
まさか知っていたのか?いやそんなはずはない。知っていたなら質問をするはずがない。
鎌をかけることにした。

「思い出せよ。いやもう思い出しているはずだよ。君は何かを忘れることはない。
故意に記憶を封じて自分に都合の悪いことを考えないようにしたんじゃないか?」

やはり変化はない。
もう時間がない。ゆっくり神木悠の心を癒す時間はない。
世界の境界が軋んでいる。いつ壊れてもおかしくはない。
そうなったらどうなるか全く分からない。なぜなら今まで境界に傷がついたことも無かったのだから。
境界を操ることができる人物なんて神木悠が現れるまで存在するはずがないと思われていた。
だが現れた。…そして境界を壊すと、天候が崩れた。大地が歪んだ。
精神は強く影響を受け境界が壊された場所では自殺が増えた。
これ以上神木悠が境界を破壊すれば言葉通り世界が壊れる。
神木悠は存在していいはずがない。それが総意だ。
殺しはしない。殺す前に気がつかれて境界を壊されたら終わりだ。
…だからこの世界からは消えてもらう。
自分が呼び寄せた救世主と異世界に消えてもらう。
それが僕の目的だ。

強制的に思い出してもらう。
ゆっくりと神木悠と目を合わせる。
そして神木悠の額に手を当てた。
パチッという衝撃と共に神木悠の記憶に入り込めた。
過去へと遡って行く。色々なリヴァイ兵士長の顔が声が流れてくる。
遡って行く。世界の境界を完璧に壊したあの夏の日まで。
背中に何かを担いだ…道に倒れているリヴァイ兵士長…境界の崩壊…
あぁこうやって壊せるのか。こんな簡単に境界に干渉ができるものか。
…幾多の境界の切れ目、ズレ…色の無い景色、顔の無い人……ああ判別できる人がでてきた。
これが継母か。記憶の再生を緩める。

「お前は生れてから私を壊すばっかり。私は本当はもっと綺麗で優しい女なんだよ?
お前のせいでこんなになっちゃった、お前さえいなければもっと幸せになれたのに。
あーあ産まなきゃ良かった。」

「…産んではいないでしょ?お母さん。」

「ばぁか、お前を産んだのは私だよ。お前の母になんかなりたくないって産まれる前から思ってた。
妊娠しちゃってあの人には避けられるし…いらついたし母になりたくないから父さんに押し付けて逃げたの。」

「…ほんと産むんじゃなかった。本心だよ悠ちゃん。」

名前を呼んだその声は微かに残る私の最初の記憶。
本当のお母さんは居ないのか。
そうか本当のお母さんはこの人か。
そうか。そうなんだ。


境界にひびが入った。
記憶の中でも、現実でも。
まずい!まずいこの記憶はダメだ。この記憶は封印されたものだ。
これは神木悠の心を完璧に壊すものだ。
急いで封印の呪をかけた。
呪の印が神木悠の右腕に浮かび上がる。
どうにか間に合ったようで境界のひびは止まった。

「…ふぅ。危ない。」

冷や汗をぬぐった。

「…私が本当にリヴァイさんを連れてきてしまったんですね。」

感情が抜け落ちたような顔で神木悠がいう。
どこまで思い出したのか分からないがそこは思い出したようだ。

「そうだよ。」

「私が自分勝手な理由であの人を…でも今の私には連れてくる方法も元に戻す方法も分かりません。」

そうだろう。
あの封印した記憶の部分にその方法と…神木悠の心を壊すものがある。
この記憶を思い出させれば世界が終わる。
ああまったく。どうすればいいんだ。
…むしろもうどうしようもない。好きにすればいい。
救いがない。どうしようもない。
頭で分かっていたことを僕はようやく実感した。

「僕もわからないんだよお嬢ちゃん。」

「そうですか。」

もういい。好きにすればいい。
投げやりな気持ちで鍵を神木悠に押し付けることにした。

「ただ…その右腕の呪を解放したらきっと分かるよ。
世界を、リヴァイ兵士長まで壊してしまうようなことが起きるだろうけど。」

「そう、ですか。」

軽く呪を神木悠は撫でた。

その仕草があまりにも綺麗で怖かった。

その仕草だけで神木悠は触れられない存在だとなんとなく思った。
これはもう神の領域だ。力が膨大すぎる。
僕の手には負えない。

「じゃあねお嬢さん。…っ、やっぱなんでもない。」

死ぬんじゃないと言おうとして止めた。
僕にはとても言っていいことじゃない。
誰にも救えないこんな孤独な13歳の少女に死の自由ぐらい許されるべきだ。

扉を開けて外に出た。
その背中に少女からの声が聞こえた。

「また来てくださいね。」

営業に切り替わったその声と、抱える背後のものの差に脅えた。
鳥肌が立っている。
僕はもう二度と神木悠に会いたくない。
 

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