企画物議
□そして、
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寒さでか震える女の半歩後ろを、黙ってついていった先は確かに有名なホテルで、静雄はとてもじゃないがその敷居を跨ぐ機会なんてこれまでにはなかった。俯いたままフロントと何か言葉を交わし、カードタイプのキーを受け取ると、細い指がエレベーターを示して静雄を促す。高名なホテルらしく厳格さが漂うロビーに、無駄な動きのないホテルスタッフら、吹き抜けの天井から吊り下がるシャンデリアになんだか怖じ気ついてしまう。
この女と一緒に部屋へ戻ることに、あらぬ誤解の目を向けられているようでいたたまれない。無言で歩く彼女の背中と、時折黒髪からのぞく白いうなじを見てるようで見ないように渋々とついていく。
男なら、胸倉を掴んで聞きたい事をさっさと聞き出したらそのまま名前も聞かずに帰っただろう。だが、何と声をかけるべきかわからないような、ひどい目に合わされてしまった女性。落ち着いてからまた会えばよかったのだろうが、あんな後で、しかも旅行者となればここまで送って行くのが摂理だろう。
それに、何も聞かないまままた後日、なんて引き下がれそうにもない。
あまり出回らない自分の連絡先を、なぜこの旅行者という女性が知っていたのか、誰から聞いたのか、そして、勘違いでないほど知合い、いや、あの仇敵に似ているのはなぜだと。
他人の空似ならいいと願う反面、それだけでは納得できない何かが直感に引っかかっている。俯いて歩く女はあまりにも弱々しく見え、それをその男に思い被らせようも少しも似通ってはいないのに。
静かな廊下に並ぶいくつもの部屋の扉を過ぎ、やがて一室に着くと、カードキーを差し入れて慣れたように解錠していく。入り口近くの照明の上、カードケースにキーを入れると部屋全体が明るくなる。
清潔感溢れる部屋に、片隅に積まれた紙袋と、二つ並んだベッドにもう一人連れ合いがいるのかと思って見渡し、部屋に入ったところから動けない。
室内に入った女は、バッグを鏡台に乗せてやっと項垂れたまま静雄に振り向く。
「……本当に、ありがとう、ございました」
聞きなれない声音がか細く礼を告げても、まだどこか怯えるような雰囲気を感じる。服からのぞく細い肩をさすり、まだ寒そうにしている。
「……いや、なんか、こちらこそ悪い……連れ合いがいるのか?」
清掃した後なのか、きちんと整えられたベッドの上に、片方は荷物が乗せられていたが、もう一つは何も無い。その空いたベッドを指差して問うと、女は緩く首を横に振る。
「いいえ、一人、です」
単身でツインを使えるのかと純粋に驚くが、あまり女性とこんなところで二人きりとは落ち着けない。急かされるような気がして道中考えていた疑問を頭の中で並べ立てる。
「そうか、で、まだ落ち着かないだろうが話してくれないか。ええと、何で俺を知ってて、呼び付けたのか」
不躾だろうが、早く聞いて退散したい。そんな思惑とはよそに、女はまだか弱く震えながらたじろいで言葉を探している。少し間が空いたが、短く息が吸い込まれると口が動く。
「……それは、その……ずっと、この街で貴方を探して聞き回っていたら、知らない人が連絡先だって教えてくれたんです。そ、その人が、あの店に行けって言うので行ったら………」
知らない人、と聞くと真っ先にあの仇敵が思いつく。だが、どんな奴かと問い質すとその特徴からその男は思い付けず、逆に静雄の知り合いにも思い当たらない。知らないところで連絡先が出回っているのかもしれない、と街の闇に舌打ち鳴らすが、冷静さが戻ってくる。
「……何で俺を、探してたんだ?悪いが、まさか弟関連とかじゃないよな?」
有名人の弟目当てに、わざわざ自分を尋ねてきたのではと瞬時に考えてしまい、腹の奥底からめらりと苛立ちが募る。しかし、女は首を横に振り、今度こそ押し黙ってしまう。
気まずさだけの沈黙に耐えかねて、煙草を失敬させてもらおうかと考えていたなら、女がとんでもない事を言い出す。
「……すみません、あの、5分だけ待って貰えませんか。身体を、洗い流したくて……」
いきなり何を言い出すのかと面食らうが、あんな事があればそうしたくなるのも頷ける、が、まだ帰れそうにないほど疑問が渦巻く中、承知できることではない。
しかし、だが、と一人慌ててしまうが、女は顔を少しだけ上げると力無く笑って見せた。
「すぐ終りますから、そしたらもっと、説明できると思うんです……冷蔵庫にある飲み物、適当に飲んでいいので…」
また顔は下がって謝るような仕草をする。ぎこちない女の態度にまだ何か引っかかるが、そう待たされる事ではないのなら、そして一人で考える時間ができるならと、許可の言葉を吐き出した。すみません、と掠れた声が泣いている声に聞こえてしまって、一瞬胸が詰まった。
着替えを紙袋から掴んで風呂場にいく女に、煙草を吸ってもいいかと聞くと、無言で頷かれてシングルソファーに座り込む。やっと震える手で煙草に手をつけると、風呂場から水音が聞こえてなぜかどきりと落ち着けなくなる。
やはり帰ったほうがよかったのか、だが、女の話次第ではこれから新宿に行く事になろう。いや、それにしても。
「……似てる、よな」
あまり顔を見せないようにする女だが、ふとした面影や雰囲気があの男をちらつかせる。でも仕草や言動はその男とはかけ離れていて何だか妙な感じだ。煙で少しも落ち着かないまま部屋を見渡し、落ち着いた雰囲気の室内に、ただシャワーの音だけが響く。知らず緊張してしまい、煙草も味がわからなくなって慌てて消しては次に手を伸ばしてしまった。緊張と一連の大暴れで喉がカラカラだったと、煙で痛む喉で思い出す。冷蔵庫を開けていいと促されたが、やはり勝手に開けるにも悪い気がしてまごついているうちに、シャワー音が止まる。
音が止んだことに焦らされ、燻っていた煙草を揉み消して緊張を振り払うように大きく息を吸う。誤解を与えないよう、怖がらせないように冷静に努めて、適当に切り上げて帰ろうと。
しばらくして風呂場から出てきた女は、タオル地のバスローブを纏って、項垂れたまま戻ってきた。パジャマでも洋服でもない格好に、ますます直視できなくてつい目を反らしてしまった。彼女は冷蔵庫を開けると酒を取り出して一本静雄の近く、灰皿の脇に置くと近いベッドに腰掛けた。
「……いや、すぐ俺、帰りますんで」
改まってつい敬語なんてなってしまい、不自然さが出てしまう。気まずさだけが深まる中、女は声を下げて恐る恐ると言うように言葉を吐き出す。
「……あの、……平和島さん?先程の話なんですけど……貴方を探していた理由ですが」
それで静雄も少しだけ女の方を、正確には女の後方にある壁に目を向ける。それでも鋭い目線だったか、僅かに女の肩が強張ったように見えた。
「……随分前、貴方は覚えていないかもしれない。こうして池袋に来たときが前にもあってーーーその時は家出だったんですけど、不良に友達と囲まれたとき、貴方が助けてくれたんです」
思い当たらない事ではない。過去何度か、やたら女の子に詰め寄る不良やチンピラどもが気に食わなくて吹っ飛ばしたことがあった。しかし、ここ最近ではない。
問い質せばなんとまだ高校生の頃だという。確かに、これだけ見目があの男に似ていたら、嫌でも覚えてしまったろうが、あの頃は周りを見ないで暴れてはいた。女の子らに声をかけることなく立ち去ってしまった事も多い。その中の一人というのか。
「あの時も、そしてさっきも、助けてもらえて、お礼を言いたくて。でも巻き込んでしまったようで本当にごめんなさい」
しなだれて俯く姿は痛々しい。だが、何か、何か引っかかる。無理をしているような、何かを隠しているような。
「いや、その、こっちが巻き込んだような気はするけどよ…その、本当にあんた」
じっと、なるべくバスローブの合わせ目には目を向けないようじっと黒髪が隠す顔を見つめる。俯きながらも、なんとかその目鼻立ちは見て取れる。ーーーやはり似ている。
「オリハライザヤって名前を、知らないか」
どことなく似ている顔、雰囲気、そして自分を貶めるためならあらゆる手法を仕掛けてくるあいつを。
僅か数秒でも酷く長く感じる。だが、その果てに待っていたのは申し訳なさそうに笑う顔が、真っ直ぐ静雄に向けられ、その顔が横に何度か振られる、否定。
「……ごめんなさい、知らないんです」