企画物議

□そして、
2ページ/3ページ




 

 女の声が余韻もなく消え失せて、再び静寂が戻る。何だかあまり腑に落ちないものが喉奥に引っかかるが、これ以上の長居は無理だろう。

「……わかった。もし警察に行くなら、俺の事は黙っててくれないか。器物破損で捕まりたくないんで」

「……いえ、警察には……もう、忘れようと思います…」

「酷い目に遭ったんだ、……言いにくいだろうが、あいつらを放っておいちゃならねぇと思う。相談だけでも行くといい」

 そして立ち上がり、鏡台の椅子にひっかけられていたベストを拾い上げるとその足は入り口に向く。靴底で踏みしめる絨毯の感覚はまだ慣れない。

「じゃあな、まだこの街にいるならまた会うかもしれねぇが、気をつけーーー」

 背を向けて、ベストを羽織ろうとしたその時に、シャツ 
の背が弱々しく握られたのがわかる。ほんの少しだけ握られているだけなのに、力無く握っているだけだろうのに、静雄は動けない。その女の手が、言葉も無く何かを訴えてくるような気がして、振り払えない。

「……すごく、とても、失礼なお願いだとはわかってます。無理だとわかってます、だけど、お願いします」

 握られたシャツがより強く握られていく。女の頼りないあの細い指を思い出す。折れそうなぐらい白くて細い、黒髪を払ってみせた指。服の裾から見えていた細長い華奢な指が、今シャツを握り締めているのだ。そして背後のすぐそこに居るとわかれば、胸が締め上げられるほど息苦しくなる緊迫、慣れない緊張に顔が熱くなる。
 振り払ってしまいそうなほどどうしていいかわからないが、肩越しに女の様子を窺うと、俯いたまま細い腕をこちらに伸ばし、時折肩を揺すって震えている。

「なん…泣いてる、のか?」

 言い当てられたのか、肩がびくつき、首が曖昧に振られるが、やがて俯いたまま静雄の背中に呟く。

「……一人は、怖いんです。お願いです、今夜はここにいてください……」


 女の言葉に、頭から冷や水を勢いよくぶっかけられたのかと思えた。殆ど初対面に近い女が、ただ怖いからといって助けてもらった男を泊めるなんて承知できない。
 道徳の観念からも、男の甲斐性からもだ。
 シャツを握り締めたまま震えている女に、呆れたような溜息をついてしまい、身をよじってその手を離させた。そして、じっと俯いている女の肩を両手でゆっくりと掴む。
 すらば、女はびくりと大きく震えて、静雄の手に彼女の緊張が伝わって行く。

「……あのよ、あんな事があって不安なのはわかる。だが、俺も男だ、こうしてちょいと触れただけで怖がるなら無理して引き留めることはやめろ。それにーー」

 言ってもいいものか躊躇いはしたが、強張った細い肩から掌を離して肌や体温の名残に気付かないフリをする。

「あんた見てると、どうしても何か仕組まれていそうな気がして落ち着かないんだ。あんたは悪くない、だけどその、知り合いに似ていて、裏がありそうだと思えるんだ」

 何も意図はなく触れただけだったが、掌に残った温かな感触や肩の細さ、肌の滑らかさがじりじりと後悔を押し上げてしまう。弱々しくて守りたくなるほど、か細い女だ。だが、どことなく一人の男を彷彿させる面影が拭いきれない疑念を色濃く胸に澱ませる。

 二人の声と、時折どちらともが漏らすため息が部屋の中に響いて消える。静雄の言葉を受けて、押し黙った女は、その顔をあげて潤んだ目を静雄に向ける。
 やはり泣いていたのかとその目を見て罪悪感がひたりと首筋を撫でて冷やす。

「お知り合いって……女性の方、ですか?そんなに似ていますか?」

 泣き顔を無理に笑わせて見せようと、その顔が少し引き攣れている。目や耳、うなじにかかる黒髪は色だけはそのまま、あの男を思い出す。だが、その表情やよくよく見たその顔は、別人だと思えるのに。
 どうしても雰囲気がーーー臨也なのだ。

「いや、男なんだが…よく見たら違うんだ、だけど、なんかな……ばっと見たときとか、こう…」

 自分でも言葉にできない違和感を、この女に説明するのは難しい。見目が似ているだけなら広い世の中、どこかにまだ居るだろう。しかし雰囲気やこうして面向かう空気が、昔から何度も味わってきた感覚と符号してしまう。

言葉を探し、自分でもわからなくて戸惑うような静雄に、力無く笑う声が聞こえた。手で口元を押さえ込んだその表情は、静雄に見えないよう隠されている。

「女性の方じゃないなら、安心しました。本当に、無理なお願いとはわかってます……けど、夜中に目が覚めて、そこに平和島さんがいたなら、私、平気です。むしろ、うれしいです。………それに……」

 あまりはっきりと喋らない女がより口ごもると、それまでとは違う緊迫が立ち込めていく。思わず息を飲んで口ごもる静雄を、真っ直ぐに見つめる女の目は強い意を含んで向けられる。
 少しかさついた赤い女の唇が震え、僅かに息を吸いこんで緊迫しきった空気が、揺れる。


「あの日からずっと、平和島さんを忘れられなかったんです」





次へ
前へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ