戯言短編

□桜のこゝろ 後編
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夜になれば静まり返った病院内、明かりも少なく、人気もない。診療所の隣を通りかかった折に巡回していた新羅に会ったが、笑顔で手を振られるだけで何も言われやしなかった。まだ二度しか通っていないのにはっきりと覚えこんだ建物の中を歩き、暗闇に沈んだ扉の前に立つ。いつも通り静まり返った部屋に、拳で扉を軽く叩けども返事はない。
新羅のように静かに扉をゆっくりと押し開くと、寝台に横になった彼がいた。
眠っているのだろうか、仰向けに目を伏せて、血の気のない唇を動かすことなく横一文字に結び閉じ、腕は体の横になげだしたまま動かない。
真っ白な顔は闇の中でもわかるほどに白く、窓から離れて置いてある行灯の灯りを受けて形のいい鼻が顔に影を落とす。まるで死んでしまったかのように動かず眠っている姿に、はっと焦り、慌てて駆け寄ると呻いた声を出した臨也が、重そうに瞳を開けた。
寝惚けて虚ろな瞳は、部屋の中を見渡し、やがて扉と寝台の中間あたりで立ち止まった静雄を捕らえた。

「……あれ?シズちゃん?……随分と遅いお見舞いだね」

「悪い、起こしたか?……色々あってな」

「いいよ、本を読んだら疲れちゃってさ、あんまり夜眠れない……少しずつしか眠れないからね」

陽が落ちて冷え込み出した空気に、浴衣の上から肩をさすると、静雄が近くにかけてあった羽織を差し出す。紺色の羽織を纏えば、その身体が細いとありありと見て取れる。元々が細すぎた体躯であったが、病はより彼の身体を細くしてしまっていた。痛々しい姿に目を反らしたくなるが、黙って羽織の紐を結び終わるまでを見届けた。

「こんな時間にどうしたの?来てくれた事には変わりないけれど」

「もう桜が終るってんで夜桜でも見に行こうと思ってな。あんまり花には興味ないんだが…」

「ああ、そうか、もう桜も終るね。夜桜とはまた粋じゃないか。俺も見たい」

そう言って寝台から飛び降りようとするのを慌てて遮ろうとしてしまう。

「すぐそこの桜ならそこから見えるだろう?夜は冷えるし胸に悪いだろう、ここからでいい」

「それなら、向こうに行こうか。表の桜はかなり見事だけど、小さいが裏庭にも一本生えているんだ。廊下からすぐ見える。それならいいだろう?」

床に足を下ろし、床の感触を確かめるように踏み締めて立ち上がる。ゆっくりと歩み寄る姿は今にも風で倒されてしまいそうだ。
無言のまま静雄を通り過ぎ、ゆっくりと扉を開けると、辺りを見渡して窓を隠す黒いカーテンを掴む。羽織とカーテンの黒に挟まれるように伸びた腕が、これでもかという程に白く細い。静かに微笑んだまま静雄を待ち、部屋を出た瞬間、ゆっくりとカーテンを開いた。


ーーー目の前の闇に、淡墨に近い淡い色が浮いている。

丁度二階の、二人が居る場所が、花振りのいい枝を目の前にしている。まさに見上げなくとも目の前が桜の花と花に埋められており、惜しくも時折風に凪ぐ枝が、はらはらと音もなくその花びらを散らし、闇に花びらを降らせていく。
さわさわ、ひらひら、緩やかに舞い散る淡い雪ーーー


「満月じゃないのが残念だけど、散り際の夜桜はまた味があるね」

臨也が闇夜を見上げて月明かりを探して見せたが、生憎今日は月が欠けていたはずだ。こうして花をまともに見た事のない静雄は、叙情的な光景に息を飲むだけ。

「明日シズちゃんは行くんだね」

ぽつりと呟いたその臨也の言葉に、夢見心地から呼び戻される。そう、明日朝にはここを発つ。桜吹雪を見ていればこれまで感じた事のない寂しさがふと胸を掠めた。
臨也は静雄に背を向けたまま、散り行く花びら一つ一つを目で追う。

「長い間、多分君には短いかもしれないけど俺には長い事考えていた。君に会ったら何て話そう、どうしよう、寧ろいつ会えるのだろう。…なんてね」

突然言いだした言葉に、その意味は何だろうかと考えた余りに、うっかり息を飲んでしまった。そんな事を考えていたなんて思ってもいなかった為に。

「あはは、そんな斜に構えなくてもいいだろ、あんまり綺麗な感情じゃないよ。本当に君にはどうしたらいいのかわからないんだ。罵倒したいのか、殴りたいのか、またからかいたいのか…謝りたいのか。どれもそうしたいれど何かが違う」

それは静雄も考えていた。久しぶりの仇敵だというのに、何をしたら、何を言えばいいのかすら思いつかなかった。臨也の言葉をまともに聞いた事がなかったが、今は静かに紡がれる言葉を待つ。

「本当に俺が君に対して何をしたいのか…そればかりを考えていた。だけどある日から考える事が辛くなってね。ちょうど肺をやられたぐらいかな。気が滅入っていたのもあったけど、鬱々と考えていたら余計にわからなくなった。
…忘れようとして、俺は本を読み漁ったけれど、どうしても忘れきれなかった。寧ろ書物からこの君への疑問を形にできないかと探してしまってた。相応しい言葉は、行動は、何だろうと」

さわさわ、ひらひら。薄いガラス越しの無音の嵐すらこの凛とした空気に響く。

「言葉は見つかった。だけど気持ちは少しも落ち着かない。だけど君の顔を見て正直、ほっとした」

臨也はまだ振り返らない。言葉を区切ると大きく肩を上げて息をし、喋り疲れたのか大きなため息を吐き出した。

「何でお前がほっとするんだ、言葉ってのも関係あるのか?」

投げかける言葉は、意味をさらに欲しいが為。もっと臨也の言葉を聞けたなら、静雄にもこのずっと抱え込んだわだかまりがわかりそうなのだ。

「ーーー言葉、かい?」

臨也がゆっくりと振り返り、淡い吹雪を背にして静雄に向き直る。そして片手を心臓の上あたりに浴衣越しからあて、とんとんとそこを掌で叩いて見せる。


「シズちゃんは俺のこころなんだ。ーーーそう、こころ。存在してくれている事が俺のこころになっていた。もう遠い、あの頃に、俺のこころはすっかり君の全てになっていた。わからなくていいよ、俺の勝手だからね」

そう言って笑う顔は、照れくさそうな笑みをし、寂しくも見える。

「君がこころになって離れてしまって、始めはわからなかった。なんでこんなに淋しくて苦しいのだろうと。だけどいつかまた戻ってくると俺は待っていた。離れた事は苦しかったけれど、存在してくれていると信じていたよ、だから送り出せれたんだと思う」

そして、臨也は申し訳なさそうに静雄に笑うと、押さえた胸あたりを握り締めてさも苦し気に振舞う。

「離れていてもいいと考えていたのに、顔を見たらやはり傍にこうして在ってほしいと願ってしまった。でもそれは叶わない。だからまた俺は送りだすんだ」

肩越しに見やる桜吹雪を目で追い、弱いながらも命を灯した目を細ませる。そして、ゆっくりと胸から手を離すと静雄にかざし、横に振る。


「こころよ、ではいっておいでって」


そうして笑った顔は無邪気なままに、穏やかに。
言いたい事を全て言えたとばかりに、カーテンを閉ざそうとまた振り返った臨也の手を、静雄の声が止めた。

「……なぁ臨也、俺はお前程学はないし、言葉を知らない」

臨也の手は動かない、静雄の今までの錯誤を繰り返していた感情が少しずつ纏まり、形になっていく。

「お前が思う事を俺は…思い違いしてしまっているかもしれないが、こう考えている」

形になった感情は、胸を満たして言葉になり、そしていま、やっと告げられる。


「生きてまた戻ってくるなら、またお前の傍に戻りたい。来年も再来年もその先も桜を見ていたい。…それはお前と共にじゃないと嫌だ、と」

言われた言葉に弾かれたように、臨也の体が揺れた。

「……シズちゃん、それ、どういう意味で言ってるのかわかってんの?」

「俺の理解が正しければお前と同じ意味にならないか?繰り返すが俺は言葉を知らない」

不器用なのに真っ直ぐな言葉。言った後、恥ずかしいのか不自然な身じろぎをしているのが衣擦れの音でわかる。笑おうとしたのに、顔は力を抜けば情けなくも泣けてしまいそうだ。

「………ありがとう、充分、正解だよ。言わなくてもいい、言葉は、俺は要らない」

胸が、今すぐに溶けてしまいそうなぐらいに熱くなる。少しずつ肺を潰していく病など消し飛んでしまったのじゃないかと思えるほどに。



嗚呼ーーーなんだ。


「俺がシズちゃんのこころに成れているならそれでいい」


俺ら独りじゃなかったんだ







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