戯言短編

□桜のこゝろ 中篇
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その夜、宿舎として静雄が滞在している民宿の一室。同室だった別の兵士は、明日出立だとかで戻ってくる気配はない。何日間かここに留まっているが、あまり話した記憶はない。静雄より少し年上で、妻帯者だと本人以外から教えて貰った。名前もとうに教えられたはずだが覚えていない、いや、覚えようともしてはいない。

これまで多くの志願兵らと肩を並べてきたが、誰もが遠い地へ向かい、二度と会うことがなかった。皆戦地やもしくはそこに向う最中に散ってしまった。一人一人を覚えていても無駄、という建前を元に一切関わる事なく独りで在ろうと決めてしまっていた。一人、また一人と去ってしまう事に心砕くその淋しさにはほとほと飽いている。そして誰かに覚えられてしまうのも苦手としていたからだ。

静雄は小さな頃から力や喧嘩が強く、度々周りから恐れられてきた。だが、自分から好んで手をだす事はしないのだが、感情に揺さぶられてしまったなら、理性を失い、あたり構わず暴れてしまっていた。其のせいで随分とどす黒い噂が流れ、彼に近付く人間は医師志望の変り者の男以外肉親でも弟しか見当たらなかった。わかっているのにひと度理性を失うものなら誰彼構わず傷つけ、距離を持たれるならば自ずから周りと距離を持ち隠れるように生きていた。

なのに、少しずつ戦争の準備が進む時節に入った中等学校で会った、折原臨也という男。様々な書物を読み漁りべらべらと詭弁を捲し立てては静雄の力を見る事に興じていた。血気早い連中を言葉巧みに唆し、静雄に無理矢理喧嘩をけしかけ、静雄一人がそいつらを文字通り吹っ飛ばしてしまうのを、離れて笑って見ていた。

黒幕のように傍観すること数度、いよいよ堪忍ならないと臨也本人に殴りかかれば見た目の薄弱さとは裏腹に俊敏に拳をかわし、軽やかに走り抜けあの静雄とも力でなく技で翻弄した。
思いもよらない相手に面食らいはしたものの、喧嘩を始めて最後まで立っている相手など初めて会ったものだ。逃げ回る臨也を何とか叩き伏せてやりたくて、躍起になって追い駆けるうち、学のある臨也の小難しい詭弁を聞きながら少しずつまともな交流らしいものも交えていくようにもなっていた。

それは周りから見れば売り言葉に買い言葉だったろうけど、静雄に臆することなく言葉をぶつけてくるのは後にも先にも臨也ぐらいだったろう。子供じみた言い合いの中ぽつぽつとお互いの素顔が見え隠れし、何となく似通ったものを根底に感じていた。

それは性格だとか生き様だとかじゃなく、独りでありたいと思う節、自ずから孤独を選んでいく諦めみたいなものだった。それを真っ向から問い質すことも確認することもなかったが、暗にそう感じ取れていた。

やがて卒業すれば臨也は文学に進み、静雄は軍に入り、新羅は医術に進んだ。三人が散り散りになった原因は戦争だったが、こうして戦争がまた三人の縁を引き戻している。
度々新羅とはどこそこで関わることもあったのだが、世情に反して己の道を突き進もうとした臨也の動向だけはわからなかった。そして何故か気になってしまうのも。

まさか病気になってこの街でひっそりと生きていたなんて。

病弱そうな風体で喧嘩にも太刀打ちし、飄々としていた奴から考えもできないことだった。それもかなり深刻な状態だと医師の新羅からの言葉にも、見た顔のやつれて弱った面影からもわかり得た。


なぜもっと早くーーー

「……何でもっと早く会わないと駄目だなど…」

昼間見た臨也のすがたを思い出すと途端に湧き上がった自責の言葉。何故そう考えてしまったのか自分でもわからなかったし、落ち着かない気分になってしまう。
時間が無い、自分にも、臨也にもーーー

だからと言って何故こんなにも焦燥感に駆られてしまうのか、もやがかかったような複雑な胸奥は煙草の煙でより燻るだけで晴れはしない。
出立は何もなければあと三日後、見送る家族も皆遠い地に疎開してしまっている。
もしも臨也が見送ってくれたら、なんて僅かに考えてしまう。

「……殴っても倒れない程度に良ければな」
 
一度殴ってみたらこの晴れない気分は落ち着くのだろうかと考えても、左胸の鼓動が我が物ではないように早く静かに脈打つ。早く、早く明日になれと焦るように







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