戯言短編

□桜のこゝろ 中篇
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朝、目を開ける寸前でいつも考える。
目を開けたなら、そこには自分の遺体があって、新羅や看護婦がそれを見て白装束に着替えさせようとしているのではないか、と。すれば胸の痛みや苦しみ、常日頃ある死ぬ事への恐怖の終わりがやって来るのではと。

だが、目を開ける前には胸の痛みで苦しくもなるし、重い身体がまだ温かいことを感じてしまう。
ふう、と安堵ではないため息を漏らして、ゆっくりと瞼を開ける。

隔離されているような広すぎる病室…元々は教室だったのだろうが、そこに簡素な木製の寝台が置かれ、少ない私物が隅にやられている。その代わりにこの司書室から拝借したり自分や新羅の私物の書物が寝台の近くに積まれている。置いていかれていく孤独感から頭の中から記憶が無くなっていくようで、せめて死ぬまでこの空っぽな頭の中をあらゆる文字や情景で埋め尽くしてしまいたい。余計な事は考えない、その為にひたすら書物を広げた。
冷め切った食事も日に日に白米が見えなくなり、物資の配給も滞りを見せている。命をかけて戦えず、寧ろ寝たきりで爆撃でもされた日には真っ先に逃げ遅れるであろうこの身。気遣ってくれるのは最早新羅だけであろう。

自業自得、散々好き勝手生きてきた報い。

食事に手を付ける気にもなれず、お茶だけを取り乾いた唇を湿らせる。白湯に近い味でも喉を通る感触は迎える胸を詰まらせる。軽く咳込み、途中まで読んでいた本を取り上げるといつも通り静かに文字を目で追う。


その時に、滅多に聞かない扉が叩かれる音が響いた。
新羅だろうか、もう検診の時間だというなら随分と寝てしまっていたなーーーそう思う反面、ずくりと胸が熱く、期待するように一瞬脈打つ。


「……どうぞ?」

中々開かれない扉に声をかけてやっと扉の取っ手ががちゃりと回された。そしてその向こうに立っていたのは、期待に応えたその姿。

「……今、いいか?」

長身なために窮屈そうに扉を潜って、ぎこちなく問う声は緊張のためかやや掠れ、小さく聞こえた。そしてその軍服が彼に寸法が合ってないと、その時やっと気付いた。平均よりもずっと身丈が高い彼らしい。

「よく、来れたね……おかまいなく」

現れ、近付いてくるその姿が信じられなくて、知らず緊張から胸や首、そして顔が熱くなる。昨日あれだけ邪険にしたというのに。

「お見舞いありがとう。新羅にでも頼まれて来てくれたとか?余程暇なんだな、出兵前の独り者は」

あまり有り難くなさげな口調だが、頁を捲る手は微かに震えてしまっている。言いたい事は、こんな事じゃない。顔も見れない。布団越しの足の上に乗せた本を眺めても、一字たりとも目に入らないほど落ち着かないのに。
木の床を踏み締めてゆっくり近付く静雄の足が、寝台よりやや離れた所で止まる。

「残念ながら忙しいもんだ、案外。この後上官らと作戦会議だとよ。作戦も何も移動中に攻撃されりゃお終いだ。すぐ帰る」

「……兵隊さんはご苦労さまだねぇ」

「病人も大変だな。苦しむのが日課なんてな」

静雄の声だ、間違いなく。記憶の中では薄れて遠くなって忘れてしまいそうだった懐かしい声。忘れで捨て去ったはずの胸の奥でざわざわと煩く鼓動が鬩ぎたてる。それがただ広い部屋に響いていそうで、堪らず胸を押さえてしまった。

「……苦しいのか?誰か医者…」

「いや、いい。大丈夫、気にするな……嗤いに来たわけじゃないだろ?そうなのか?」

今にも口から弱い言葉を吐き出してしまいそうになって、誤魔化そうとする言葉は明かに喧嘩腰だ。病気にかかって卑屈になってしまったのか、静雄に恨めしささえ感じている。そんな上っ面な感情など出す暇も許されないのに。

「別に。やっぱりテメェを殴れやしないかと確認しにきただけだ。もう少し顔色良けりゃ殴らせて貰ったけどな」

「……そうか、まぁ、そうだよね。うん、じゃあ殴ったらいいだろ?日に当たらないから顔色は悪いけど、一、二回殴られても別になんて事はないさ。遠慮はいらないよ?」

静雄が息を飲むのがわかった。学生時代に色々と不快な思いをさせてきたし、恨みつらみも積み重ねてきた。病人だから許すわけもないだろう。殴られる事で昨日から錯誤する感情が少しは縺れなくなるなら、いい。

「どうしたの、ずっと殴りたかったんじゃないのか?散々俺から迷惑かけられて、変な噂も流されて…凄い怒っていただろう?」

拳を握り締めたまま立ち尽くす姿を、まだ見上げる事ができない。顔を見たらまた変な事を言い出してしまいそうだ。心臓が煩い、苦しい。

「最後、出兵する前に過去の精算ができてよかったじゃないか。殴れば積年の怨みが無くなるかもよ?」

書物を閉じ、まだ薄ら痛む胸から自分の手を離す。それでも顔は上げれない。本の上で組んだ手が震えてしまう。

「……無抵抗の人間を殴る程できた人間じゃない。今更殴りとばしても何か釈然としねぇ。どうしたいんだろうな、俺もお前も」

「驚いた…ただの暴力人形だと思っていたのに、まさかそんな言葉が出てくるなんて思ってもいなかったよ。じゃあ切々と恨みつらみを言い聞かせてくれるのか?苦しむ様を嘲笑ってみせるのかい?」

嗚呼、そんな言葉じゃないのに、と口に出して後悔してしまう。そして静雄の息の吸い方がまさに激昂する寸前だとわかる。いや、神経を逆撫でしてその怒りを自分にぶつけてくれれば、きっと過去の事まで怒鳴り散らして責めてくれるだろう。

短く目を伏せて覚悟を決めかねた時に、静雄が踵を踏み込み床を鳴らすと視界からその姿が離れていった。はっと顔を上げたなら、確かにその背中を向けて黙ったまままた扉に向かおうとする静雄を見た。
考えてもいなかった。まさか黙ったまま立ち去ろうとするなんて。何かしら拳であれ罵言であれ、跳ね返ってくるとばかり踏んでいたのに。

「……いいのか?明日にも俺は死ぬかもしれない。今なら逃げも隠れもできないんだけど?」

「……虚勢張ってできもしない喧嘩を仕掛ける馬鹿に付き合ってられなくてな。出発は明後日だ、やる事が多い。…せいぜい養生しろよ」

そのまま床を踏み鳴らし、荒く扉を開け放つ瞬間、何を言おうとも考えてもないのにその人を呼び止めてしまっていた。二度と会えない、そんな恐怖を打ち消したくなった為に。

「……これが今生の別れかな?シズちゃん」

「……そうなるだろうよ」

「………」

出て行くかと思ったが静雄は横目で臨也を伺うばかりで動かない。胸底にある言葉や思いを口に出せる程の勇気は今はない、だがーーー

「それなら明日、もう一度来れないかな。来れるならでいいから。……もっときちんと、君に話したい事がある」

「今はできないのか?」

「……できそうも、ないな。今は君とは喧嘩口になってしまう。無理ならーーーそれでいい」

「……わかった」

そのまま振り返る事なく部屋を出た静雄を見送り、落胆したため息を深く深く吐き出す。こんな言葉や感情なんかじゃない、ずっと言わなければならない事があったはず。だがそれは形にも言葉にもできていない。
一日考えたらそれはできるのかと思えない、だがもう、明後日には死地に赴く静雄だ、せめて餞の言葉でも用意してやりたい。
書物を開こうと褪せた表紙に手をかけた瞬間、息ができない程の圧迫が痛みを伴って胸に押し付けられる。前のめりになり、胸を必死で掻き、浴衣を掴んで逃がそうとしても術はない。息のできないまま額に汗を浮かばせ、死ぬ、という言葉すら過る。やっとの思いで吸い込んだ空気がすぐにけたたましい咳込みで吐き出され、慌てて当てた掌に生暖かい感触が広がる。

ようやく鎮まった咳に、ゆっくりと落ち着いて呼吸を整え、恐る恐る掌を見れば、鮮血がそこに広がっていた。喀血の頻度が上がった、と諦めを込めて一瞥し、手元の手拭いで手と口周りの血をぬぐい取る。
時間はない、だが、明日、どうにか静雄に伝えなければもうお終いだ。変に尖る己の意地をどうにか納めようと臨也は血に染まった布を握り締めて、寝台に体を横たえた。





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