小説2

□地獄変
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「芥川ですか」
 そう言って、姫璃は俺の隣に腰を下ろした。
「珍しいですね。最近は日本文学ブームですか?」
「ただ単に気になっただけだ。そういう姫璃も芥川じゃないか。君は漱石派だったんじゃなかったか?」
「気まぐれですよ、ただ単に」
 そっけなく答え、机の上に頬杖を突く姫璃。いつまで経っても本を開かないその様子から無言の要求を感じ取った俺は、本を閉じて姫璃を見た。
「何を読んでるんだ?」
「先生こそ」
 芥川の作品はほとんどが短編だから、表紙を見ただけじゃ相手が何を読んでいるのか分からない。また、出版社によって組み合わせが違うから厄介だ。今だって、俺が読んでいるのは角川文庫版。姫璃が読んでいるのは新潮文庫版だ。
 姫璃の指が、そっと本のカバーをなぞった。俺は諦めて口を開く。
「「――『地獄変』」」
 それから、笑った。
「なんだ、一緒か」
「しかも同じタイミングって」
 タイミングが被ったのは全くの偶然だ。読んでいるものが一緒だったのも偶然……と言いたいところだが、それは多分、違う。
「確かに姫璃は好きそうだな、『地獄変』」
「好きですよ。王朝物だと一番好きかもしれません。真紅先生も好きなんですか?」
「ああ。この微妙なバランスが良いな。皮肉一辺倒になってもおかしくない内容が、絶妙のタッチで描かれているだろ? そこが好きなんだ」
 芥川龍之介の『地獄変』は、芥川の王朝物の中でも代表的な作品だ。舞台は平安時代。人と修羅の間で生きるような天才絵師の、哀しい物語。おかしい、受け入れられないと生理的嫌悪感を覚える人間は、確かにいるだろう。けれど、嫌悪感を感じさせる作品になればなるほど、優れた作品が多い。俺はそう思う。
 危ういバランスの上にある作品が好きな人間には、自分自身も危うい部分を抱えた人間が多いと言う。残念ながら、俺はその中に含まれない。どちらかと言えば、危うい人間を好む人間なだけだ。
 でも、姫璃は違う。
「……なあ、姫璃」
 真っ黒な瞳を捕らえ、俺は静かに語りかけた。
「お前なら、描くか?」
 すると、姫璃は大きく瞬きして、それから、目を細めた。
「……多分」
「そうか」
 そう、姫璃は燃えていく牛車を描くだろう。自分の大切な人が燃やされていく牛車を見ながら、泣きながら、それでも恍惚とした顔をして描くのだ。
「自分から燃やそうとは思わないかもしれないけれど、でも、火をつけられたら描くと思います」
 姫璃はそういう人間だ。それをひた隠しにしているけれど、どこかから綻んでしまう。俺はそれを知っている。人と修羅との間で苦しみながら生きる彼女の姿に、確かに気付いているのだ。そして、彼女のそんなところにこそ、強く惹かれている。
 姫璃は透夜のような超越的な存在じゃない。透夜なら、牛車に火が付けられた瞬間に助けに行くだろう。透夜は超越的だが、間違いなく人間だから。けれど、姫璃は違う。どう足掻いたところで、彼女の中には醜い悪鬼が潜んでいるのだ。だから姫璃は描いてしまう。他の人間なら勝てる悪鬼に、姫璃は勝てない。――だって、人間に成りきれない彼女は、修羅の道を選んで行くしかないのだから。
「俺はきっと、それを止めないんだろうな」
 俺が好きなのは、そんな、人間と修羅を孕んだ姫璃だ。勿論、姫璃がそれを望むなら、いつでも人間の側に引っ張り込んでやりたいとは思う。けれども、それが姫璃を苦しめるだけなのだとしたら、俺はそれを選ばない。俺が本当になりたいのは、
「もしも修羅になることこそが君に幸福を運ぶのだとしたら、俺は止めたりしない」
 俺が本当になりたいのは、姫璃の修羅を完成させる存在だ。
「なれなかったら、君は死んでしまうんだろう?」
 君のためになら、俺は、牛車の中で燃やされたって構わないだろう。









父親と数日前に芥川の話になってから、ずっと書こうと思っていた話。

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