小説2

□貴方にはかなわない
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「あのですね、晁蓋殿」
 自分の目の前の椅子に陣取って一向に部屋から離れようとしない頭領の姿に、呉用は頭痛を覚えながらため息をついた。
「私は忙しいのです。お帰りになってください」
「別に構わんだろう、ここにいるくらい」
「気が散ります。ですから駄目です」
 書類仕事で忙しくしている彼をにやにやと眺めているのは、言わずと知れた梁山泊の頭領――晁蓋だ。彼は呉用の幼馴染でもあり、それもあってか、よくこの執務室を訪れている。暇なときであれば呉用も彼の相手をするのだが、いかんせん、今日は事情が事情だった。
「私は今忙しいんです」
 呉用は寝不足だ。この三日三晩、一睡もしていない。彼も彼で仕事を終わらせようと頑張っているのだが、何しろ梁山泊は《好漢》たちの集う場所であり、仕事に反比例して文官になりうる人材が少ない。その皺寄せが呉用にくるのは、しようのないことだった。呉用だって、それに文句を言うつもりはない。それが天下のためになるならと、甘んじてそれを引き受けている。だが、それとこれとはわけが違う。呉用も今は他人に構っていられる状況ではない。晁蓋の遊び相手をしている余裕などないのだ。
「それは見れば分かる」
「では、何故」
「俺は暇なんだ」
「外で鍛練なさればよいでしょう。晁蓋様に相手をしてほしい方なら、いくらでもおられるはずです」
「今日は雨だぞ」
「……そうでしたか。これは失礼、外のことなど構っていられる状況になかったもので」
 だから帰れと精一杯の皮肉を込める呉用だが、それが果たして晁蓋に伝わったのかどうか。会話をしながらも手を休めない呉用を眺めていた彼は、唐突に立ち上がり、茶を淹れようと手を伸ばした。
「呉用、茶を飲むか」
「私は要りません。晁蓋様おひとりでどうぞ」
「少し休憩でもしたらどうだ」
「している余裕は御座いませんので」
 つん、とした態度を崩さない呉用に、思わず苦笑する晁蓋。
「それは残念だ」
 自分で淹れた茶を口に運んだ彼は、ふむ、と顔を顰める。
「この茶は出涸らしだな」
「それは失礼致しました」
「茶の味も分からなくなるほど忙しかったのか、呉用」
「……」
「それとも、茶が出涸らしになるほどに長時間この部屋にこもっていたうえ、味に構う余裕もないほど忙しかったのか」
「……何をおっしゃりたいのですか、晁蓋様」
 確かめるように慎重な晁蓋の質問に、さすがに呉用も顔を上げる。湯呑みを机に置いた晁蓋は手を伸ばし、呉用の目の下の隈に触れた。
「寝た方が良いんじゃないのか、呉用」
「何のお話ですか」
「三日三晩寝ていないんだろう? 蒋敬に泣きつかれたぞ」
 年下の部下が泣きながら走っている様子が、呉用の目にありありと浮かぶ。しかし、呉用はここで折れるわけにはいかなかった。
「それがどうしたとおっしゃるのですか。晁蓋様の心配はありがたいですが、私はそれほど柔では御座いません」
「つまり、今日も徹夜するということか?」
「必要があれば」
「そうか」
 隈の上を往復していた晁蓋の手が、すっと呉用の顔から離れる。内心で安堵しながら、「ですから」と呉用は言葉を継いだ。
「今日はもうお帰りください。一段落着きましたら、お話は伺います」
「それは駄目だ。俺の目的が達成できない」
「……目的、ですか?」
「呉用、本当に今日の夜も徹夜する気か?」
「ですから、必要があれば……」
「確かに俺はお前を弱く見過ぎているかもしれん。しかし、お前が俺より弱いのは確実だ」
「当たり前でしょう、晁蓋様と一緒になさらないでください」
「そんな俺でも四日間徹夜は無理だ」
「……」
「それなのに、お前はできると言うのか?」
 意地悪い声色で言われ、呉用はハッと唇を噛む。しかし、もう遅い。何と答えても揚足を取られるのは間違いない。
「俺の勝ちだな」
 そう言って笑う晁蓋が、今の呉用にはこのうえなく憎らしいものに思えた。それこそ、書類の山など比ではないほどに。
「……謀りましたね」
「必要だと思ったからだ。言っておくが、俺は悪いとは思っていないぞ。お前に倒れられたら、梁山泊の損失がどれだけ大きいと思っている? 俺個人としてもお前が無理をするのは見ていたくないが、これは組織の問題だ」
「知らぬ間に、随分と知恵をお付けになったようで」
「呉用の頭の回転が鈍くなっただけだ。仕事のしすぎじゃないのか?」
「どうやっても、そこに話を持って行かれたいようですね」
「呉用こそ、往生際が悪いぞ。早く負けを認めて寝たらどうだ。丁度そこに長椅子もある」
「嫌だと申したら、どうなされますか?」
「俺に運ばれるか自力で長椅子まで行くか、どちらの方がお前の気に召す?」
 どうやっても逃がさないと暗に言われれば、呉用にはもう逆らう気も起きない。何を言っても無駄だ。そう悟った呉用は、せめて自力で寝に行こうと椅子から立ち上がった。
「……晁蓋様、今日はお暇だと申されましたね?」
「ああ、暇だぞ」
「では、正午を過ぎたら起こしてください」
 お願いしますよ、と念を押し、呉用は長椅子に横たわる。程無く下りてしまった彼の目蓋に、晁蓋は優しく声をかけた。
「おやすみ、呉用」
 その声を夢うつつに聴きながら、ああ、と呉用は心中で嘆息した。
 どう足掻いても、この人にだけは勝てない。







一本目ということで晁蓋と呉用。

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