イタナルコ編

□冷たい唇
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 古いボロアパートに引っ越してくる羽目に陥ったのは、懐の具合が原因だった。父親は作曲家として有名な人だったらしいが、日本では無名に等しく、またオペラ歌手として名を馳せたらしい母も、父と同様知る者は少ない。そんな音楽一家で育ったあたしだったが、あたしが幼稚園のころ、過労が元で二人とも儚くなり、父の師に連れられて日本に来たのは卒園する頃。身元保証人とも養父とも言える、写真家のその人は、長年恋焦がれる相手が居て、その相手にあたしを押しつけたのが小学生に上がった頃だった。が、江戸っ子気質で姐御肌のその女性は、借金取りに年中追いかけ回される人でもあった為に、その二人の大学時代の先生と言われた人に、たらい回しされるあたしを見かねたのか、引き取られる事となり、あたしが十三の歳まで、その老人…じっちゃんと呼んでいた猿飛ヒルゼンと暮らした。が、そのじっちゃんも大概高齢で…養老施設に入ることが、じっちゃんの身内と相談の上で決まり、あたしはじっちゃんの息子の一人、猿飛アスマ兄ちゃんに、今度は身元保証人と成ってもらって一人暮らしを始めた。それが中学の一年に上がった頃の事だ。
 学校に自身の複雑な家庭の事情とそれに伴う逼迫した家計を話してバイトをする承諾を貰って、最初に手を付けたのは、新聞配達だった。今後の生活を支えるために必要な収入源。一月働いて手にした金額を基に選んだのが、今にも倒壊しそうなそのアパートだった。
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