■月夜に躍る

□月夜に躍る
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 濃紺のインクを吸い上げた色ガラスのような夜空には、ぽつんと大きな下弦の月。人々が寝静まった夜更けの町角。どこか遠くで、誰かが蹴っ飛ばした空き缶の転がる、あっけらかんとした空虚な音がした。冬という季節ではあるが、この辺りは雪が降るほどまでには気温が下がらない。確かに風はぴりひりと、透明な薄氷のような感触をはらんで冷たいが、空気は乾き切り。この中を行こうものなら、まるで冷えたびろうどの暗幕を掻き分けるような肌触り。

「…ちっ。」

 場末も場末、居並ぶ古びた建物たちに誰かが住んでいるような気配や温もりがまるで感じられないほどの町外れの夜陰の底に、どこからか軽やかな足音が聞こえて来た。たかたかとどこか楽しげな、ステップでも踏むような速足の足音。こんなにも人気のない夜更けには何とも不似合いな、幼い子供が遊び場にでも出掛けるようなリズミカルな駆け足の音。それだけでも充分に不審なのに、それを追う気配も続くからますます不審だ。

"ったく、何の恨みがあってっ。"

 追っ手もまた、結構な健脚ではある。しかもこちらは、どういう技だか、まるで足音がしない。見やればごくごく普通の、いやいや…かなりがところ一所懸命な駆け足だのに、特別な靴でも履いているのか、それともそういう修行を積んだ胡散臭い人物なのか。すたたた…とも、かっかっかっ…とも、何の響きもないものだから、幽霊が追っているように見えるかもしれないほど。健脚同士の深夜の駆けっこは、なかなか差が縮まらない好ゲームではあったのだが、

「…あ。」

 先を逃げていた側がひょいと飛び込んだ路地の突き当たり。行く手に立ち塞がったのは、2メートル以上はあろうかという金網フェンスである。寂れた場末に残されたものにしては頑丈そうで、穴もほころびもない代物だけに、

"しめた。"

 追っ手の側が、この高さでは到底越えられまい、小柄な相手をやっと追い詰めたと思ったのも束の間、

「えいっ。」

 フェンスの際からその真上へ、ぶんっと振られた腕の先。薄闇の中にちかりと光った何かが夜陰を撥ね上がり、遠くで"かつん"と微かな音が。くいぐい引いて手ごたえを確かめた少年は、そのまま体重をそちらに任せ…ひょいっと軽快にジャンプ一番。眼前の菱形金網を四辺で固定している一番上のフレームの上まで、一気に飛び上がったから堪たまらない。

「あっ、このやろっ!」

 往生際が悪いと言おうか、どこまでも逃げて躱し続けられる機転が…憎たらしいまでに周到だと言おうか。彼の手にあるのは警棒くらいだろう、短めの特殊な竿が一本。途轍もなく丈夫な釣り糸を仕込んであるそれで、どこか高みへ鈎ぎ金具を引っかけてそれを手掛かりに2メートルもの高さをものともせず、垂直に飛び上がった彼であるらしい。あっと言う間に駆け上がったフェンスの頂上から、やはり軽快に飛び降りて。網越しの向こう側、ブンッと再びスナップを利かせて手首を振って見せ、ワンアクションで長く繰り出した釣り糸を鮮やかに引き戻す。それから、

「どしたの? 疲れちゃった?」

 うくくと笑みを含んだ声でわざわざ訊いてくる意地の悪さよ。大きな眸に表情豊かな口許。此処は夜更けの場末であるというのに、遊んでもらってでもいるかのように、いかにも楽しげな言いようをする少年。こんなに間近にいるというのに、鋼鉄製のフェンスが阻んで捕まえられない歯痒さに、牙を剥きかねないくらいにギリギリと憤懣の籠もった顔をして見せる男へ、

「じゃあ、今夜の獲物も、
 俺が貰っちゃうからね。」

「…っ!」

 小さな手の先、ぴんっと宙へ弾かれたのは。こんな薄暗がりでもそれと分かるほどの綺羅らかな光を放つ、随分と大ぶりなオーバルカットのサファイアだ。落ちて来たそれをぱしっと横ざまに握り取り、

「じゃあね。大怪盗の"剣豪"さんvv」

 バイバイと幼い仕草で手を振って。くるりと背を向け、去ってゆく。早く帰らなくちゃお母さんに叱られるからと続きそうな、あっさりとした口調なのがまた、いっそう腹に据えかねて、

 "あんのクソ餓鬼〜〜〜っ!"


 一体誰が信じるだろうか。これで、今夜で7件目。天下に名を馳せた有名怪盗の鼻を明かして、あんな小さなお子様が世界に名だたる秘宝や宝石を片っ端から横取りし倒していようとは…。
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