寄せ集め

□あまごい奇譚
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日が翳った。

いや、翳ったというのは少し違う。
太陽との間を遮るものがあった。それはあっという間もなく大きくなり、すたん、とその大きさからはおおよそ無理があるであろう音をたてて目前に降り立った。大きく翻った白銀の布地の向こうに、透き通った琥珀のような瞳が覗いた。
その目を間近に見ることとなった青年、沖田総司は突然のことに少しばかり目を瞠った。それもそのはず、前を通りかかった店の二階から人が一人跳び降りてきたのだ。しかも、

女―――?

舞った髪の香りか、ふわりと草葉の匂いがした。
上手く着地できた事に気を良くしたのか、瞳が満足気に細められる。
周囲の時が止まったかに思えたその一瞬。それから少し遅れて、店の二階に人の頭が覗いた。


「食い逃げだー!!」


叫びが昼中の通に響き渡るやいなや、跳び降りてきた人物は脱兎のごとく駆けだした。


「うわ。ちょっと」


反射的に後を追ったのは日頃真面目に任務にあたっている証拠だろう。やれ不真面目だなんだと姑のように小言ばかり口にする顔を思い出し、ほらみろと思う。
面倒なことに行きあったという考えが浮かんだけれど、今更足を止める訳にもいかずに逃げる背中を追う。

だがしばらく走った所で急に追っていた人物を見失った。気付けば、白い着物を纏った体躯は忽然と消えてしまい、人の行き交う通の真ん中で自分だけが息を切らせて突っ立っていた。
あんな着物を着ていれば嫌でも目立つ。にも関わらずだ。面倒だとは思いつつも追跡の手を抜いたつもりはない。
何かあったのかと周囲の人々が好奇の目を向けてくる。
ほんの一瞬、人垣に紛れてしまっただけで見失うなんて。しばし辺りへ目を走らせるが、逃げ込めるような路地も見当たらない。見渡す限りで白い着物は見つからなかった。
どこかの店にでも逃げ込んだのか。まるで狐につままれたような、どうにも腑に落ちないものを感じたが、しばらく人の流れを眺めた後、一つ息をつくと沖田は来た道を引き返す事にした。不逞浪士供ならいざ知らず、所詮食い逃げ、方々から多く人が集まってくるこの京の都ではそうそう珍しいものでもない。
別にムキになって追うほどのものでもないのにここまで追いかけてきただけで十分だろう。
相手がたまたま身軽で足の速い人間だっただけだ。もしくはすっかり手慣れた食い逃げの常習犯か。けれど、と沖田は感じる不可解さに思いを巡らせる。

一つ引っ掛かるのは琥珀色をしたあの目だ。異様に細長い獣のような瞳孔。一瞬だったがはっきりと覚えている。

あれは―――鬼…?

つい先日、昔話の類ではなくそんなものが真実存在するのだと知った。
今沖田の属している新撰組に身を置いている少女。まさか彼女を狙っている一族に関係があるのか。だとすればもっと本腰を入れるべきだったか。
…まぁいい。なんにせよ取り逃がしたことに変わりはない。さっさと切り変えてさっき通り過ぎた橋の上まで戻った時、ふと視線を感じて沖田は背後を振り返った。記憶にある白い着物こそ見当たらなかったが、人垣の合間から一対の目が彼を見ていた。
欄干に腰掛けたその人物は、ふり向いた沖田を認めて僅かに口の端を持ち上げた。
濃い緑の着物を纏った年若い女だ。


「ねぇ君さ、ここを凄い勢いで駆けていった人、見なかった?」


近寄り訊ねると、女は片手で口元を隠し笑うような素振りを見せる。
その仕草に僅か苛立ちを感じたものの、沖田は女の返事を待った。


「ふむ。その者ならあちらへ行ったぞ」


口を開けば、おおよそ町人とは思えない口調で女は今沖田が来た方向を指差した。


「…そう。ありがとう」


そう言いながらもその場を動こうとしない沖田に、彼女が僅かばかり首を捻る。


「追わずとも良いのか?」
「もちろん追うよ。ただ、その人があっちにいったなら目の前の君はなんだろうって思ってね」
「私か?私は――む、何だこの手は?」
「君が逃げないようにと思って」


冷たい笑みを浮かべた沖田が先手を打ってとった手を、女は顔色一つ変えずに見つめた。
その目が陽の光を受けて琥珀色に光る。
間違いない。ほんの一瞬ではあったがそれは先刻沖田が見た瞳と同じものだった。いつの間に着替えたのかは分からないし、こんな短時間で着物を変えられる筈がない。だが近頃は、今まで築き上げてきた観念だとか概念なんかが崩れるようなことばかり起きている。変若水や鬼の一族、物語の中の存在であったはずのものが今新撰組を取り巻いている。
ならば、これもまたそんな不思議なものの一つなのではないか。頭で考えても分からない、理が通じないものなら自分の直感を信じるまでだ。


「私には今のところ逃げようという気はないが」
「そんなの信じられると思う?」
「信じられなければ離さぬのか?」
「当たり前でしょ」


現にさっきまで僕から逃げてたじゃないと言えば、
「そなたから?」と女は首を傾げた。そして、そうか!と空いている方の手でぽんと膝を打つ。


「これが世に聞く“しゅうちゃく”というものなのだな」


その言葉を聞いて、手から力が抜けそうになった。


「…は?」
「しゅうちゃくとは一度掴んだものを離したくないと思うことなのであろう?」


それらしい事を言ってはいるがまったく合っていない。
いやそれよりもまず噛み合っていない。


「そなたは私にしゅうちゃくしているのだな」


今すぐにでも掴んだ手を離してしまいたくなったが、そういう訳にもいかない。
もしかして自分は物凄く面倒な何かに関わりを持ってしまったのではないかと、そんな考えが薄っすら過る。

なんだろうこれ…。

わけの分からなさだけを見れば世間知らずのお姫様のようでもあるが、それにしたって食い逃げ犯だ。お目にかかったこともないが姫というものは、いやまず普通の女は二階の窓から飛び降りたりはしない。頭のおかしいふりをして逃げおおせようという魂胆か。


「確認しておくけど、君はさっきお店で食い逃げしてた白い着物の子でいいんだよね?」
「くいにげ?そうだな、先ほどの者は何やら妙な事を言いながら怒っておったが」
「………」


この子こそ妙な事を言っているが、とりあえずは店の二階から飛び降りた子で間違いはないらしい。


「…とにかくさっきのお店まで戻るよ」


詳しい話を聞くのはやめにした。またややこしい話になる前に、とっとと店の者に引き渡してしまうに限る。
と、それまで抵抗する素振りを見せなかった女が急に腕を引いた。


「…それは、私が怒られるのではないのか?」
「そうだね。みっちり叱ってもらいなよ」
「すまぬが、そなた一人で戻ってくれぬか」
「…君ね」


今度こそ呆れて二の句が繋げない沖田に、女は口を尖らせて言い募る。


「私はあのように怒鳴られるのは好かぬのだ」
「はいはい、じゃあさっさと終わらせようか。僕だって面倒なんだからさ」


そう言って嫌がる女の腕を引いて歩き出そうとしたのだが、するり、とまるで腕だけが抜けてしまったかのような妙な手ごたえがあった。しかも、握った手の中にあった感触も変わり果てている。


「…な」


振り返ると女の姿は消えていた。それこそ煙のように跡形もなくかき消え、そして何故か手の中には緋色の帯だけが残されていた。
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