「ヘザー湖の波浪現象は、200年前の司祭の日記にも残されています」 わざわざ古書を調べてくれたらしい司祭は、資料のコピーを示した。 ラインが引かれた箇所は、確かに“風も無いのに波立つ”と読める。 「当時から、悪魔の仕業だと信じられていたようです。ただ、具体的な伝承や、いつごろからある話なのかということは、伝わっていません」 更に、もう一枚、地図のコピーを差し出す。 湖の名称に記号が添えられている。 伝承を持つ湖の地図らしい。ヘザー湖の名も見えた。 「ヘザー湖だけでなく、この地方一帯の湖には、悪魔や竜が潜むとの伝説が数多く残されています。悪魔たちは司祭や騎士に敗れ、あるいは聡明な乙女や機転の利く若者にやりこめられて、魔力を失い、湖へ逃げ込んだといわれています」 「湖に…」 西洋、特にキリスト教における悪魔は、ドラゴンや蛇にたとえられている。 だとすれば、ネリーに悪夢を見せる“怖いもの”も、湖に潜む悪魔の成れの果てか。 「お手間をいただいた。一時間ほど、ここをお借りしたいのだが」 「構いませんよ。お帰りの際は、書庫の鍵を司祭室までお持ちください」 「承知した」 司祭が去ると、室内は瞬く間に静まり返る。 窓をたたく雨音が、やけに大きく聞こえた。 時折、暖炉の薪のはぜる音が響く。 音らしい音は、それくらいだった。 歴代の司祭たちが残した古記録をめくる指が、ぴたりと止まった。 「グラムローズ一帯には、湖に悪魔や悪竜が棲むという伝説がある。悪魔は人間の欲望を叶える代わりに、多大な代償を要求する」 この地方を管轄するグラムローズ司教座の裁判記録に“湖の悪魔に我が子を生贄として差し出した”という罪状があった。 「多大な代償…魂、あるいは人間の犠牲か…」 バージルの瞳が鋭く尖った。 日はもうすぐ、傾こうとしている。 |