洋書

□鏡
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一歩、足を踏み入れた途端、カビの臭いと猛烈な埃にみまわれた。
大きなクモの巣が幾重にも垂れ下がり、まさに幽霊屋敷、化け物屋敷といった様相だ。
壊れた窓から入る光が、湿気ではがれかけた壁紙へ、いやにはっきりした明かりを投げかけている。
傷んで悲鳴を上げる床板を、踏み抜かないよう慎重に進んでいくと、マホガニーや真鍮や金メッキの様々な調度品の中に、埃まみれの鏡台が姿を現した。
ちょうど、真上の屋根に穴が開いていて、スポットライトのように鏡を照らしている。
埃や風雨や歳月に覆われ、優美なアラベスクは黒く変色し、鏡面は縁から灰色に錆びてきている。

いつのまにか、ひとりの女が映っている。

もちろん、周囲には誰もいない。
何より、鏡の真正面に立っている、ダンテ自身が映っていない。

鏡の中から、ぼさぼさの麦わら色の髪に、なんともいえない嫌な眼差しを向けてくる女。
心なしか、口元が歪んでいるようだ。ねじまがった笑いを浮かべるためにありそうな口だった。
(たちの悪い幽霊だな)
悪しき心根で不幸を撒き散らしてきた、成れの果てといった容貌だった。
鏡の所有者たちとは似ても似つかない、誰も知らない亡霊。いつの間にか古い鏡に居ついたのだろう。

「だったら、文句ないよな」

なぁ、と意地悪い微笑でアイボリーを引き抜く。
鏡へ向けられる銃口を見た、幽霊女の表情が一変した。不気味な怒りの形相で、大胆不敵な男を威嚇している。
が、ダンテにとっては、そんなこけおどしなど露ほども堪えない。
「不法侵入の挙句、もとの住人を追い出して、廃屋の中でシングルライフをご満喫ねえ。あいにく、生きた人間様の世界では、そういうワガママ勝手は通用しないんだ。死んで性質の悪い幽霊になってるあんたに、どうこうする権利はないんだよ」
幽霊女が鏡を抜け出ようとするより早く、アイボリーの銃弾1発が鏡面を粉々に砕いていた。


「で、鏡はどうしたんだ?」
手ぶらで戻ってきたダンテに、エンツォが慌てて尋ねる。
が、ダンテは笑うだけで答えない。
「おい、ダンテ、証拠がなけりゃ依頼完了にミソが付いちまうだろ」
「持ってきても、気味悪いだけだぜ?」
「は?」
「鏡の中に閉じ込めちまったからな」
「閉じ込める…って、まさか、幽霊をか!?」
「悪霊に片足突っ込んでる、性質の悪いやつだったから、鏡から出られないように本体をぶっ壊した」
正確には、鏡に封じ込めた上で、現世との通路を壊す意味で鏡を砕いた。だから、たとえ鏡を張り合わせても出てこられないし、邪悪な思念も鏡面に跳ね返されるだけだという。おまけに、破片の分だけ異世界があり、地獄の番人が迎えに来るまで何十という世界を彷徨い続けるのだとも。
「今まで無関係の人間を大勢、不幸にしてきたんだ。地獄に落ちるまで、せいぜい苦しむこった」
こともなげに言い放つダンテの、これまでと異なる冷徹さに、エンツォは改めてダンテの持つ深淵を覗いた気がした。



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