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□君子偕亡
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カゲロウの羽衣
衣裳をまとい 楚々たる貴方が
私の心を苦しめた

そうして私も還り来たる
このおくつきに
此処に帰り説ばん





「まだ、お帰りにはなりませんか」
 灯明が油の匂いとともに燃える。
照らすのは、冥府の河のように長い長い黒髪。
高貴な闇を畏れるように、光すら薄暗い。
「まだ」
 明かりも持たず進んでいく、その人の美しい目は、いったい何を映しているのだろうと思う。
 暗く深く、ただ強い意志が閃く、月夜のような、あの目に。
 それは、死者の参道をゆく人に相応しいのかもしれない。
 陵という名の、この死者の家に。
「子元、人は玉に包まれて在れば朽ちぬと思うか」
「いいえ」
「なぜ?」
「人も禽獣も、死ねば等しく肉は腐り、骨は朽ちます」
「そうであろう…私も、お前も、な…」
 主が何を考えて、この不吉な問いを発するのか。司馬師には、理解したくないことだった。
 その深い情愛と同じだけの苛烈さと怒りが、この君に狂気を吹き込むのだ。
「ここだ」
 たどり着いたのは、祭室だった。
 広い空間の中に、ただひとつ、玉の台が置かれている。
 寒々しい光景に、司馬師は身震いした。
 それは恐怖ではなく、強い嫌悪感だった。
「子元」
 とろりと滑らかな死者のうてなへ触れながら、愛する人は言う。
「ここが、私の終の住処だ」
 灯火に照らされた顔の半分は、闇と同じように暗い。
 光のあたる顔は恐ろしいほど白く、この世ならぬほど美しい。
「元仲様…」
 何を言うべきなのだろうか。
 何を求めて、この人は死の家に佇むのだろうか。
 不吉な息苦しさに司馬師は喘いだ。
「お前も、私も、本当はこのような場所で交わるのが相応しいのかもしれない」
 濡れた黒い玉のような目が、司馬師を凝視している。
「きっと、お前はこの国を滅ぼしてしまうから…」
 司馬師が、悲鳴にも似た嘆息を漏らした。
(――ああ…)
 墓所の湿った空気が、呻くように肺腑へ吸い込まれていく。
 ありのまま、告げるのか。
 あなたのいまさぬ玉座など、許さない――と。
「そう、申し上げて…、それは、あなたのお心ですか…?」
 かすれた声で答えれば、何を感じ取ったものか、白い手が優しく司馬師の唇へ触れる。
「そうであるとしても…」
 この君に魅入られるとすれば、それは至上の幸福だ。
「私は…お前を愛さずにはいられないから」
 白い手を、白い手が掴む。
 そのまま玉の床台に引き倒した。
 肪のように潤む台座へ、漆黒の髪が散る。
 彼が何を思い、九泉の館へいざなったのか――ようやく理解した気がする。
「私は魏が憎い」
かすかに息を呑む震えが伝わってきて、司馬師は悲しげに目を伏せた。
「死に臨んでなお、あなたに思われる魏が憎い…」
「子元、私は――」
「あなたがお望みなら、ここで犯し尽くして差し上げよう…」
「違う…私は…」
「言ったはずだ…それがあなたのお心に適うか、と」
 唯ひとつの相違が、絶対の差異で以て二人の間に横たわっている。
 それなのに、唯ひとつの愛情が絶対の桎梏として二人を繋いでいる、その事実こそ、何より恐ろしい悲劇なのだと。


「帰りましょう…我が君…」
 絹に包まれた温かな体と柔らかな髪を抱きとめる感触に、冷ややかな玉の床はいかにも不似合いだった。
「ここは死者の都です、あなたがおいでになってはいけない…」
 いつかは来たるべき場所であっても、それは決して、今ではない。
 そう訴えるように、司馬師は優しく、力強く、抱き止める。
 曹叡は何も答えず、黙って彼の袖を握りしめた。





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