書架

□沈む水
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 少し前から、彼はいやな咳をするようになっていた。軽いが、喉に何か詰まったように、ひっきりなしに続く。
 寒さに弱い彼は、冬になると熱を出すことがあったが、それも近頃では増えてきている。
 一昨年は、秋の終わりから春まで、床に臥せっている日のほうが長いほどだった。
 去年は季節に関係なく発熱する日が多く――今年は咳や体の痛み。
 司馬師はゆっくりと首を振った。
 考えたところで何にもならない。ただ、治せばよいのだ。


「ああ、子元。よく来たな」
 すこし気分が良いのか、曹叡は床に起き上がっていた。
 おもやつれした美しさと青白い肌が、どうにも不吉な印象を与える。
 白い手の中に納まる玉椀を見て、司馬師はちょっと眉をしかめた。
「お薬はお召しになっていますか」
 問えば、主は素直に頷いた。
「人の薬は霊水に勝ると思うか?」
「私には、得体の知れぬ水より、典医たちの調合した薬のほうが、はるかに信頼できます」
 歯に衣着せぬ物言いに、曹叡はむっとした表情になった。が、何も言わないのは、その言葉が的を得ているからだろう。
 登女を自称する女の水薬には、何かの薬草や香草を調合しているのか、確かに発熱などを抑える効果はあった。だが、それも本格的な病の前では無力ということか。

――たかが水で長生きできるなら、酒を飲んでいる私はもっと長生きしますよ。

 亡き悼皇后の兄・毛曾は、酒好きが祟って肝臓を病んでいたが、霊水のことは頭から信用していなかった。
「最近、拝謁を辞しているぞ、あの女め…」
 少し顔を背けているのは、気まずいからだろう。司馬師は苦笑しながらも、愛おしい主の頬を撫でた。
「諦めて、人の薬を召されることですな」
「……お前は先を見通しすぎる」
 ふいとそっぽを向く。それがまた愛おしい。
ただ、先を見通すという言葉が、一段と不吉に胸を圧した。
 僅かに触れた白い頬。指先に伝わるぬくもりは、それとわかる程度に熱い。この微熱が、なかなか引かない。引かないのに、顔色はむしろ青白いほど。
 曹叡が軽く咳き込んだ。いつもと同じ、どこか乾いた咳。
「どうぞ、お休みください」
 そっと、痩せた肩へ手を添え、温かな寐台に身を横たえさせる。その肩の薄さに思わず指を震わせたが、表情は変えなかった。
 熱っぽい体は、曹叡が思うより疲れていたのだろう。絹に羽毛をいっぱいに詰めた特別な枕へ、心地よさそうに顔をうずめていた。が、すぐにその目は司馬師に向いた。
「子元」
「はい」
「今度の朝議に出るときも、また、髪を梳いてくれるか」
「勿論ですとも」
「うん」
 何のこともない会話に安心したのか、曹叡は目を閉じた。すぐに、呼吸が寝息へと変わる。
 この頃の曹叡は、自分の眠る前や司馬師が退出する前、必ず、こんな他愛もない問いかけをすることが増えた。
 司馬師は、何かを拒むように小さく首を振る。
 まるで、この世から引き離されようとする曹叡の、自分の身が日常に在ることを示すためのまじないに思えた。
 互いの心の内が悲鳴を上げようとも、振り返ること、引き止めることは叶わない。
 そう思っていても――
“離れたくない”
 扉を閉めるとき、そんなささやきが聞こえた気がした。




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