少し前から、彼はいやな咳をするようになっていた。軽いが、喉に何か詰まったように、ひっきりなしに続く。 寒さに弱い彼は、冬になると熱を出すことがあったが、それも近頃では増えてきている。 一昨年は、秋の終わりから春まで、床に臥せっている日のほうが長いほどだった。 去年は季節に関係なく発熱する日が多く――今年は咳や体の痛み。 司馬師はゆっくりと首を振った。 考えたところで何にもならない。ただ、治せばよいのだ。 「ああ、子元。よく来たな」 すこし気分が良いのか、曹叡は床に起き上がっていた。 おもやつれした美しさと青白い肌が、どうにも不吉な印象を与える。 白い手の中に納まる玉椀を見て、司馬師はちょっと眉をしかめた。 「お薬はお召しになっていますか」 問えば、主は素直に頷いた。 「人の薬は霊水に勝ると思うか?」 「私には、得体の知れぬ水より、典医たちの調合した薬のほうが、はるかに信頼できます」 歯に衣着せぬ物言いに、曹叡はむっとした表情になった。が、何も言わないのは、その言葉が的を得ているからだろう。 登女を自称する女の水薬には、何かの薬草や香草を調合しているのか、確かに発熱などを抑える効果はあった。だが、それも本格的な病の前では無力ということか。 ――たかが水で長生きできるなら、酒を飲んでいる私はもっと長生きしますよ。 亡き悼皇后の兄・毛曾は、酒好きが祟って肝臓を病んでいたが、霊水のことは頭から信用していなかった。 「最近、拝謁を辞しているぞ、あの女め…」 少し顔を背けているのは、気まずいからだろう。司馬師は苦笑しながらも、愛おしい主の頬を撫でた。 「諦めて、人の薬を召されることですな」 「……お前は先を見通しすぎる」 ふいとそっぽを向く。それがまた愛おしい。 ただ、先を見通すという言葉が、一段と不吉に胸を圧した。 僅かに触れた白い頬。指先に伝わるぬくもりは、それとわかる程度に熱い。この微熱が、なかなか引かない。引かないのに、顔色はむしろ青白いほど。 曹叡が軽く咳き込んだ。いつもと同じ、どこか乾いた咳。 「どうぞ、お休みください」 そっと、痩せた肩へ手を添え、温かな寐台に身を横たえさせる。その肩の薄さに思わず指を震わせたが、表情は変えなかった。 熱っぽい体は、曹叡が思うより疲れていたのだろう。絹に羽毛をいっぱいに詰めた特別な枕へ、心地よさそうに顔をうずめていた。が、すぐにその目は司馬師に向いた。 「子元」 「はい」 「今度の朝議に出るときも、また、髪を梳いてくれるか」 「勿論ですとも」 「うん」 何のこともない会話に安心したのか、曹叡は目を閉じた。すぐに、呼吸が寝息へと変わる。 この頃の曹叡は、自分の眠る前や司馬師が退出する前、必ず、こんな他愛もない問いかけをすることが増えた。 司馬師は、何かを拒むように小さく首を振る。 まるで、この世から引き離されようとする曹叡の、自分の身が日常に在ることを示すためのまじないに思えた。 互いの心の内が悲鳴を上げようとも、振り返ること、引き止めることは叶わない。 そう思っていても―― “離れたくない” 扉を閉めるとき、そんなささやきが聞こえた気がした。 |