書架

□浸玉
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ほんの僅か、暁の気配が漂い始めた回廊を、司馬師は黙々と歩いていた。
初夏の内院は、橘が美しく咲き誇る。
清楚な素栄が月光を照り返し、ほの白く清らかに大地を満たしていた。
その中で、含羞の薄紅を見せる百合が、控えめに片隅を潤している。



つい数刻前まで、司馬師は父の帰りを寝ずに待っていた。
今宵何度目か。灯心を換えて油を注ぎ足し、少し明るさを取り戻した室内。
そこへ、父は戻ってきた。
「子元」
「はい」
「上のもとへ行け」
「……私に、何をせよと?」
「ただ行けばよい。行けば、自ずと判るだろう。いや……お前が適うかどうかも……」
後の呟きを濁し、司馬懿は帯を抜いた。
ぴしりと合わせられていた官服の襟がくつろぎ、ほっそりした首筋があらわになる。
その白いうなじに残された、真新しい紅。
息子としては、あまり気持ちの良い光景ではなかった。
だが、それはすぐ、疑問に取って代わった。名族特有ともいえる潔癖さで情事を隠そうとする父が、こうまで無防備に痕を見せることに。
問い尋ねようとして振り返った司馬師の目に、ぐったりと寐台に横たわる父の姿が映った。
「父上……」
案ずる息子の声に気付いたのか、司馬懿は大儀そうに目を開ける。
「構わぬ」
短く言って、あとは寝息に変わった。



特有の冷気に、左目が微かな疼きを覚える。眼帯の上から軽く撫でさすっていると、不意に、甘い香りが鼻に届いた。
それは、内院の奥まった場所から漂ってきた。
控えめな甘い香り。百合であろう。
“上は白い花をお好みでな。”
そう、どこか嬉しそうに呟く父の声が、耳朶に蘇る。
自分や昭が、親から愛されていることは感じている。そして、期待されていることも。
だが、父が帝のことを語る口調には、自分たちに向けられるのとはまた違う、特別な愛情が込められていて。
ぼんやりと考えつつ、徐々に白んでくる庭園の奥へと歩みを進めた。


芳香が強まる。
人の気配を感じた。
静かに息づく、その気配。
なぜか、鼓動が跳ね上がった。
回廊の先は、真っ白な光の海。
「これは……」
目映きは光ではなかった。
白い花が、一面に夜明けの光を照り返しているのだ。
しかも盛りのまま花を落として。
ふと、視界の端を白いものがよぎる。
花精かと思った。
それほど美しく、気高かった。

だが――その白い手は、無造作に白い花を引きちぎった。

感情のままむしり取った百合の花弁を撒き散らす。
一切の感情を凍りつかせた秀麗な面は、宝玉を刻んだように冷たく美しい。
それでいて、白い指先は絶え間なく百合の花弁を引き裂き、叩きつけ、荒々しい動作を繰り返す。
薄絹の衣を着けただけの、皎潔とした躰。
すらりと伸びた肢体は、しなやかだが決して繊弱ではなく、中性的で硬質な清らかさを宿している。
まさに、神女が手ずから創り上げたがごとき佳人。
だが、その内には、間違いなく狂気が巣食っていた。




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