書架

□浸玉
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「あなたは、私を愛しておいでか……?」


いつからか。
逢瀬に交わりを求めなくなったのは。
ただ、互いのある姿を認めて、それで心が満たされる。
寝を共にすることもあるが、抱しめ合い、体温と鼓動に安らぎながら眠りに落ちるだけのもの。
一頃よりもよほど淡く、静かな過ごし方。
しかし、二人は満足していたし、それ以上を求めようともしなかった。
それが、昨夜に限って、曹叡から激しく求めてきた。
誘うのが彼であるのはいつものことだったが。
久々の誘いは、どこか余裕がなく、外見には出さないものの焦るような様子だった。
そして、何かを確かめたがっているような。
そんな曹叡の様子に、司馬懿は応じるのをためらったが。
主命だと言われれば、拒むことはできなかった。


行為後のけだるい余韻に揺さぶられながらも、どこか堕ちてゆけず冴えたままの思考。
背を向け、目を閉じてはいるが、眠ることができない。
そこへ、いきなり言葉が突き刺さった。
「あなたは、私を愛しておいでか?」
やや掠れ気味ながらも、はっきりと夜気を震わせる声は、明らかに、自分が起きていることに気付いた上でのもの。
仕方なく向き直れば、そっと、抱き寄せられた。
思わず鼓動が跳ね上がる。が、すぐ、静かになった。
「仲達……?何を考えている……」
優しく髪を梳かれて安堵するものの、先ほどの問いの意図が解らず、曹叡は訝しげに問い返した。
司馬懿は、自分よりも華奢な主の体を抱きしめ、深く口付けた。
「ん……ぅ……」
柔らかな唇を割り、皓歯の奥、熱い舌を捉えて絡めれば、くぐもった声が漏れる。
決して激しくはないが、濃密な口付け。
どうしたことか――以前は心地よいと感じていたはずの愛撫が、今はどこか従いがたく感じる。
無意識のうちに身をよじり、抱きすくめる腕から逃れる。
小さく息を整えながら、当の曹叡が驚いていた。
「仲達……私は……」
何か言いかけるのを遮るように、司馬懿は言葉を重ねた。
「あなたが私に求めておられるのは、このような愛情ですか」
曹叡の形の良い眉が、動揺した。
そうだと、言いかけたが。言葉が唇の外へ出ようとしない。
では、何のために彼を求めていたのだろうか。
ただ、心を支えるためだけに抱かれたかった、とは思いたくない。
自分がそれほど弱く、安いものだと思うのは耐えられない。
ならば、何故。
「違う……」
曹叡は嫌がるように首を振り、寐台から後ずさった。
「上……」
司馬懿が字で呼ばないことにも、気付く余裕はなかった。
「違う、私は……ッ!」
叫ぼうとする唇を固く引き結び、きっと顔を上げた。
「お前こそ……お前こそ、私ではなく、私の父を抱いているのだろう…?」
「それは、あなたがお求めになったことです、陛下」
我ながら酷な物言いをしている、と司馬懿は思った。
この聡明に過ぎる君が、解っていないはずがない。解っていながら、やり場のない渇望に苛まれ、責めずにはいられないというのに。
「そうでもしなければ、お前は私を愛しはしない。そうだろう…」
「はい」
一度は離れた体を、優しく抱き寄せてやった。
寒々しいほどの言葉とは裏腹に、気だるい体温はどこまでもとろりと生ぬるい。
「私は、あなたを慈しんでは差し上げられます。けれども、愛することはできない」
あなたも、と、長い髪が優しく梳かれる。
「私を愛することはできない。あなただけを見ない私を、あなたは拒む」
口づけに感じた、受け容れがたい感情―寂しさと怒りがないまぜになった、空虚な悲しさを、曹叡は思い出した。
「あなたは、本当に子桓様と似ておいでだ」
久しぶりに聞く父の字。
死してなお、近くに感じようとするような呼び方に、曹叡は思わず、着物をきつく握り締めた。
「私をお求めになる姿も、言葉も、何もかも……愛されたいと、悲鳴を上げておられる…」
「なぜ…!」
わかっていて、答えてはくれないのだ。
「私は子桓様のものです。そして、子桓様は私だけのものだ…」
耳元に響く声の、一瞬の鬼気迫る危うさ。
はっと曹叡が顔を上げたとき、目の前にはいつもの穏やかな微笑があった。
何か言いかけたのを断ち切り、曹叡は身を翻して室外へと出て行った。
長く艶やかな髪が月光に照り映えたのが、鮮やかな余韻として目に残った。


寐台に一人残された司馬懿は、細い眉を静かに顰めていた。
(――動揺させるつもりはなかったのだが)
そう、ひとりごちてみる。
が、病的なほど鋭敏な神経をもつ曹叡には、ある意味で耐え難い問いだったはず。
溜息をつきながらも、司馬懿は立ち上がり、身支度を整える。
背や首に残る爪痕が見えぬよう、襟元を整え、寸分の緩みもなく朝服を着る。
帯鉤を留め、佩玉の錚々とした響きを聞けば、そこには普段どおりの彼がいた。
房室の扉を閉めるとき、二度と此処へ召されることは無い、と思った。



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