「あなたは、私を愛しておいでか……?」 いつからか。 逢瀬に交わりを求めなくなったのは。 ただ、互いのある姿を認めて、それで心が満たされる。 寝を共にすることもあるが、抱しめ合い、体温と鼓動に安らぎながら眠りに落ちるだけのもの。 一頃よりもよほど淡く、静かな過ごし方。 しかし、二人は満足していたし、それ以上を求めようともしなかった。 それが、昨夜に限って、曹叡から激しく求めてきた。 誘うのが彼であるのはいつものことだったが。 久々の誘いは、どこか余裕がなく、外見には出さないものの焦るような様子だった。 そして、何かを確かめたがっているような。 そんな曹叡の様子に、司馬懿は応じるのをためらったが。 主命だと言われれば、拒むことはできなかった。 行為後のけだるい余韻に揺さぶられながらも、どこか堕ちてゆけず冴えたままの思考。 背を向け、目を閉じてはいるが、眠ることができない。 そこへ、いきなり言葉が突き刺さった。 「あなたは、私を愛しておいでか?」 やや掠れ気味ながらも、はっきりと夜気を震わせる声は、明らかに、自分が起きていることに気付いた上でのもの。 仕方なく向き直れば、そっと、抱き寄せられた。 思わず鼓動が跳ね上がる。が、すぐ、静かになった。 「仲達……?何を考えている……」 優しく髪を梳かれて安堵するものの、先ほどの問いの意図が解らず、曹叡は訝しげに問い返した。 司馬懿は、自分よりも華奢な主の体を抱きしめ、深く口付けた。 「ん……ぅ……」 柔らかな唇を割り、皓歯の奥、熱い舌を捉えて絡めれば、くぐもった声が漏れる。 決して激しくはないが、濃密な口付け。 どうしたことか――以前は心地よいと感じていたはずの愛撫が、今はどこか従いがたく感じる。 無意識のうちに身をよじり、抱きすくめる腕から逃れる。 小さく息を整えながら、当の曹叡が驚いていた。 「仲達……私は……」 何か言いかけるのを遮るように、司馬懿は言葉を重ねた。 「あなたが私に求めておられるのは、このような愛情ですか」 曹叡の形の良い眉が、動揺した。 そうだと、言いかけたが。言葉が唇の外へ出ようとしない。 では、何のために彼を求めていたのだろうか。 ただ、心を支えるためだけに抱かれたかった、とは思いたくない。 自分がそれほど弱く、安いものだと思うのは耐えられない。 ならば、何故。 「違う……」 曹叡は嫌がるように首を振り、寐台から後ずさった。 「上……」 司馬懿が字で呼ばないことにも、気付く余裕はなかった。 「違う、私は……ッ!」 叫ぼうとする唇を固く引き結び、きっと顔を上げた。 「お前こそ……お前こそ、私ではなく、私の父を抱いているのだろう…?」 「それは、あなたがお求めになったことです、陛下」 我ながら酷な物言いをしている、と司馬懿は思った。 この聡明に過ぎる君が、解っていないはずがない。解っていながら、やり場のない渇望に苛まれ、責めずにはいられないというのに。 「そうでもしなければ、お前は私を愛しはしない。そうだろう…」 「はい」 一度は離れた体を、優しく抱き寄せてやった。 寒々しいほどの言葉とは裏腹に、気だるい体温はどこまでもとろりと生ぬるい。 「私は、あなたを慈しんでは差し上げられます。けれども、愛することはできない」 あなたも、と、長い髪が優しく梳かれる。 「私を愛することはできない。あなただけを見ない私を、あなたは拒む」 口づけに感じた、受け容れがたい感情―寂しさと怒りがないまぜになった、空虚な悲しさを、曹叡は思い出した。 「あなたは、本当に子桓様と似ておいでだ」 久しぶりに聞く父の字。 死してなお、近くに感じようとするような呼び方に、曹叡は思わず、着物をきつく握り締めた。 「私をお求めになる姿も、言葉も、何もかも……愛されたいと、悲鳴を上げておられる…」 「なぜ…!」 わかっていて、答えてはくれないのだ。 「私は子桓様のものです。そして、子桓様は私だけのものだ…」 耳元に響く声の、一瞬の鬼気迫る危うさ。 はっと曹叡が顔を上げたとき、目の前にはいつもの穏やかな微笑があった。 何か言いかけたのを断ち切り、曹叡は身を翻して室外へと出て行った。 長く艶やかな髪が月光に照り映えたのが、鮮やかな余韻として目に残った。 寐台に一人残された司馬懿は、細い眉を静かに顰めていた。 (――動揺させるつもりはなかったのだが) そう、ひとりごちてみる。 が、病的なほど鋭敏な神経をもつ曹叡には、ある意味で耐え難い問いだったはず。 溜息をつきながらも、司馬懿は立ち上がり、身支度を整える。 背や首に残る爪痕が見えぬよう、襟元を整え、寸分の緩みもなく朝服を着る。 帯鉤を留め、佩玉の錚々とした響きを聞けば、そこには普段どおりの彼がいた。 房室の扉を閉めるとき、二度と此処へ召されることは無い、と思った。 |