書架

□薄夜
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「触れるな…ッ!汚らわしい!」
音を立てて振り払われた、手。
払い除けられたほうは勿論、払い除けた曹髦自身が驚いていた。
「陛下…?」
訝しげな司馬昭の声に、我に返った天子は、無言で駆け去る。
後には、ざわめく廷臣と、呆然とする司馬昭が取り残された。





朝見での不可解な皇帝の態度が気になった。
自分が憎まれているのは重々承知の上だが、あそこまで嫌悪感あらわに拒絶されたことなど無かったはずだ。
(まさか、知っているのか…)
賈充、あるいは鍾会との関係を。
今朝の出来事は既に人々の耳目に達している。
背筋に悪寒が走った。
すぐにでも身辺を慎まなくてはなるまい。
いかに口を噤ませても、いつ明るみに出るか知れない“秘密”なのだ。
考えてみれば、人払いをしたとて、皇帝が相手では誰も拒むことなど出来ない。
それは、最も警戒しなければならないことだったというのに。
「迂闊であったわ…」
悔しげに呟いた、その時。
するりと、背後から青白い腕が伸びてきた。
それは背後から司馬昭を優しく抱きすくめ、愛おしそうに撫抱する。
常であれば、特に拒む理由も無いのでされるがままにしていたが。
今日のことで気の立っている司馬昭は、すげなく払い落とした。
「止せ…」
主の冷淡な態度に、賈充は眉をひそめた。
「…今朝のことが、そんなに気になりますか…?」
核心を突いた質問に、司馬昭は苛々と溜息をついた。
そこまで解っているならば、どうして、配慮しようとしないのか。
「私とお前の関係を、陛下が知ってしまったかもしれんのだぞ。いや、陛下だけではない…侍者、衛兵、こうなった以上、人の口は遮れぬ…不用意な行動は慎め」
ああ、と賈充は事も無げに頷く。
「でしたら、ご心配はいりませぬ」
莞爾と笑う、その顔。憫笑のように嗤う、その表情。
何を言うことも止めて、榻上へ座り込んだ。
「…何を使った」
「織機を」
司馬昭は眉をしかめた。
「であれば、最高の見せしめであろうな…」
素直な感想であり、皮肉でもあった。

織機のように激しい音を立てて身悶えるからとも、上下に体を折り曲げて苦しむ様が似ているからだともいう劇薬。

「あなたの御命に従えぬ者など、生きる価値はございません」
まるで諭すように優しげな表情。
慈愛に満ちた眼差しで、司馬昭の頬へ優しく触れる、その手。
(――ああ、なるほど)
白い指が首筋からあわいへと滑り落ちる、その淫靡な動きを眺めながら、司馬昭は理解した。
「けがらわしい…」
ぽつりと呟かれた言葉に、喉を這う唇が震え、動きを止める。
だが、その表情は相も変わらず、暗い澱に翳りながらも優しい。
「ああ、また毒されておいでだ…」
病人をいたわるかのごとく囁き、その唇が深く、重ねられた。




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