書架

□煙炎
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昔、彼は自分を見ると、必ず莞爾と笑い、親しく字を呼んでくれた。
“子桓、よく来てくれた。今日は狩にでも行くか?それとも酒を飲もうか。ああ、この間の団棋の借りを返していなかったな、今度は負けんぞ?”
そうして、手を取り、肩を抱き、明るく迎えてくれたものだった。
それだけではない。
彼は自分の出す要求にも、よく応えてくれた。
彼の事を「帝との故縁のために出世した」と貶す者もいるが、筋違いも甚だしい。
彼がどんなに努力し、その才を用いて王事に仕えたか。
それは自分が最もよく知っている。
どんなに自分が距離を置いても、彼は変わらず、自分を信愛してくれた。
それなのに。


「痩せたな、伯仁…」
小さな灯の下、曹丕は呟いた。
寐台に横たわる夏侯尚は、柔らかなともし火の灯を受けてなお、血色を失い、やつれた様が見て取れた。
それは、彼自身の心の有様なのかもしれなかった。
「伯仁」
つむがれる静寂に、言葉がむなしく吸い込まれていく。
光を失った瞳は、もう誰をも映さず、ただ一人の美しい面影だけを止めているのだろうか。
曹丕は思わず、彼の手を握った。
そうしなければ、今にもその手は、幽冥の淵に差し伸べられてしまうような気がした。
固く握り締めても掴みかえしてはくれぬ、その手は乾き、節々が痛いほど触れた。
「許せとは、言わぬ…」
その言葉が聞こえたわけでもないだろうに、夏侯尚の瞼が震え、そしてゆっくりと閉じられた。
こうして眠りに落ちるたび、彼は少しずつ、死へと墜ちていくのだろうか。
「すまぬ……伯仁…!」
曹丕は泣いた。
良くも悪くも冷徹で、何事も後悔せぬと割り切っていた彼が、そう言って泣いた。
皇帝である間、臣下である間は許されなかった、それが唯一の謝罪の場であった。

その年の暮れ、夏侯伯仁は薨じた。
灯火の尽きるような、寂しい、静かな死だった。




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