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□有
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「起きよ、帰命侯!」

頬をはじかれる感覚に、孫晧ははっと目を開いた。
司馬炎が愉快そうな笑みで見下ろしていたが、何を見つけたか、目をぱちぱちとしばたかせた。
「すまぬ、張りすぎた…」
ぼんやりとした思考が、脹れた頬の熱を伝えてきた。
覚醒しきらぬ頭が理性を抑え、睡魔が苛立ちを助長する。
「殴ることはあるまい…」
孫晧が不機嫌そうに呟く。
すると、なだめるように乱れた髪を梳かれ、額から頬、そして唇へと、優しい接吻が与えられた。
「気を失っては、つまらぬ」
甘えかかるように腰を押し付ければ、
「あなたが強すぎるのだ…」
溜息混じりに答えながらも、青白い腕がそっと背中に回される。
そうやって、ただ抱きしめあう。
黙って体温を分かち合っていると、体の交わりとは違った融け合いを感じることができた。
「疲れたか?」
「当然だ」
にべもない。
「可愛くないことを言うと、もう来てやらんぞ?」
「結構。後宮に相手をしてもらえばよかろう」
わざと冷たく言ってやれば、6つも年上の天子は、途端、むくれたようなしょげたような、なんとも情けない表情になる。
「本気で言っているのか…」
「あなたが本気であればな」
「………本気ではない…」
「であれば、私も本気ではない」
「帰命侯の性悪…」
そういうと、抱きついたまま、器用にころりと横になった。
「妃嬪もつまらぬ時があるのだ」
「勝手な話だ」
「だって、私のものだ」
「半分は私の、だ」
「…うるさい」
他愛ない軽口の応酬を放棄して、深く深く、腕の中に抱いた孫皓へと口づける。
一呼吸置いた後、彼がこつりと鼻をぶつけるようにして応じてくれれば、とても嬉しい。
嬉しいから、思い切り抱きしめて、頬を摺り寄せてみた。
「ん……おい、苦しい…」
もぞもぞと苦しがられてしまった。
それでも、無理に振り解こうとはしない。
「苦しければ、振り払えばよかろう…?」
抱きしめたまま、囁いてみた。
「できるか、そんなこと…」
「なぜ?」
予想はできているけれど。
できれば聞きたくないのだけれど。
「あなたは帝で、私は臣下だから」
やっぱり。
司馬炎は目をつぶった。
そうすると、今度は無性に悔しくなる。
「………ばか……」
「何とでも言え」
「………たぬき……」
「……そこまで言うか」
「言うにきまっている……わからずやのたぬき…」
「けじめだ…私なりの」
「そんなもの、知らぬ」
「あなたは、私にこんな軽口を許してくれる。だから、言葉では逆らっても、行いは絶対に逆らわない。そう、決めている」
「そんなもの知らぬと、言っている」
勢いよく身を起こすと、孫皓の目を覗き込むように顔を寄せる。
「寂しい」
黒目がちの司馬炎の瞳に、微かに目を開いた孫皓の姿が映る。
「寂しいのだ…とても……そなたなら、解るだろう?なあ…」
孫皓は黙って司馬炎を見つめていたが、やがて、そっと顔を近づけた。
「帝位とは、そんなものだ…」
だから、自分の孤独を理解し、心からその意を迎えてくれる者を愛してしまうものなのだ。
たとえ、それが正道に悖ったとしても。
なだめるように静かな接吻を与えて、長い黒髪を梳き撫でてやれば、司馬炎はきゅっと唇を引き結ぶ。
子供が親になだめられたとき、体よく話をそらされたと気付いてする仕草に、よく似ていて。
孫皓が思わず笑むと、その微笑の意味を察したのか、項垂れるように抱きついてきた。
「なあ…知っているか…」
「ん…?」
「私の伯父は魏明を愛し、愛したが故に魏を滅ぼした」
「そうか…」
「彼は皇帝を愛したのではなく、人を愛した」
「故に、かの人のおらぬ玉座を厭うた、か…」
「他ならぬ皇帝自身も、知っていて愛したのだとしたら…?」
それは罪深いことなのだろうか。
「それでも、人として愛されたのなら幸いだ……天子を愛する者が、その人を愛するとは限らぬから…」
「そう、思うのか」
「そういうことなのだろう…?」
寂しいということは、そういうことなのだ。
「解っている…あなたの孤独は…」
「解っているなら…何故…!」
「それを分かち合うということは、天子としての心情を持つということだから」
「違う」
「陛下…」
「違う…違う…!どうしてそんな考え方をするのだ、お前は…。そんなに怖いか?かつての玉座を思い出すのがそんなに恐ろしいか?」
「そんなことは――」
「では、何故、受け入れてくれない?分かち合ってくれないのだ?それとも、天子の感情を共有したとして、私が咎めるとでも?」
「そんなことはない…」
「では、何故?」
「臆病なのだよ、きっと」

玉座に近づく、その恐ろしさ。
玉座に近いことは、すなわち、死にも近いのだ。
玉座に近くありながら、そこから滑り落ちた者の惨状を知っているから。
滑り落ちた自分は、決して、死と背中合わせの座を振り返ってはならないと。

「それが、恐ろしいのだ」
きっと、と、静かに付け加える。
「だから、命じてくれないか」
許す、と。
至尊に在る孤独を分かち合うために。
「それであれば、きっと私は――」
己を捕らえる傷から解放してくれ、と。
今、玉座に在る男が、かつて、玉座に在った男を、抱きしめる。
「お願い…」
どうか共に在れと。
誰も知らぬ孤独を思い、分かてと。
己という“人”を愛せと。
「なあ、私の帰命侯……私の、元宗…」
その響き、いやというほど知っている己の音が、まったく知らぬ言葉となって唇に触れた。
その響き、知っているはずの知らない音が、己の唇を震わせる。
「そうとも…私の、安…世…」
一度たりとも知らなかった音が、生まれた。






→あとがき

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