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□誰も知らない
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「お父様…少し、お聞きしてもいいでしょうか」
「何だ?」
「畏れ多くも天子様に叛くと、その人は、どうなってしまうのですか?」
「天子様に叛くというのは、人として最も重い罪だ。罪を犯した本人だけでは到底、償いきれるものではない。故に――」
「故に?」
「その三族を斬り、大逆の罪を負わせると共に、百姓への申し開きとする」

三族の定義は、概ね「親」「兄弟」「妻子」とされる。
本人の祖父母あるいは孫、兄弟姉妹の配偶者と子も含まれ、時に妻の一族も連座する。

「罪の係累にない他家に嫁いだ女であれば、慣例として助命する。そのように、仁慈を垂れることも忘れるな」
言ってから、内心で舌打ちした。
正始の変において、父は他姓へ嫁いだ婦人たちをも皆殺しにし、世人から眉をひそめられた。
この聡明な子が、それを知らないはずがない。
(私は、どうにもこの子へ偽りを教えたくないらしい…)
それは、あるいは、かつてのような苦い思いを与えるかもしれないけれど。

「お父様?」
不意に沈黙した義父をいぶかしんだか。
澄んだ呼びかけが、司馬師の意識を引き戻した。
「ああ、すまぬ…」
安心させるように、その小さな白い額を撫でてやる。
司馬攸は黒々とした睫を伏せ、ちょっと逡巡してから、また顔を上げる。
「お父様…先ほど、三族を斬る、と仰いました」
「そうだな」
「……もし…」
「もし…?」
「もし、そこに、ぼくと同じ年の子がいても、殺してしまいますか?」
体が硬直した。
それは、抱きしめる幼子にも、はっきりと伝わっただろう。
「なぜ…そんなことを聞く…?」
「お義母様のお家のことを考えていたら」
“おかあさま”
それは、健在である羊家のことではあるまい。
この子にとって義母にあたり、三族を殺された家。
それは即ち――
「婉容……」
この20年、口に上せることのなかった名が、虚空に消える。
よそよそしく冷たい、娘たちの視線を思い出す。
「徽瑜から、聞いたか……」
「いいえ」
小さな頭がふるふると、横に揺れた。
「自分で調べました」
雨音が室内を支配する。
腕に抱いたぬくもりと、背筋に重く被さる冷気。
左目が疼いた。
「軽蔑するか……私を…」
喉に張り付いた問いを引き剥がす。
もう、腕の中に抱くのは幼子だということは、忘れた。
これは、純粋にして無垢なる何か――たとえば、良心――への問いだと思った。
返ってきた答えは。

「悲しいと、思います」

小さな手が、司馬師の腕を抱きしめる。
「どうして、罪のない女の人や、子供や、老いた人まで殺されなければならないのか、私には解りません――まだ…」
まだ、と言った。
取ってつけたような、“まだ”。
それは、自分を抱きしめてくれる父への、そして、今は離れて暮らす父への、いじらしい配慮。
「攸…」
「でも」
「…でも?」
「でも、……仕方、ないのですよね……自分と、その家族と、いろいろな、大事なものを守るためなら……仕方ない……」
小さな丸い肩が震えている。
自分の腕に縋る小さな手も、かたく、力を込めて。
なぜ、この子に、こんなことを言わせてしまったのか。
こんな言葉を聞きたくて、押し付けたくて、問うたのではないのに。
「攸、もういい……すまぬ……」
雨は激しさを増す。
心を冷やすような音に、小さな啜り泣きの音など溶けてしまえばよい、と思った。





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