書架

□落英
1ページ/1ページ




九月の九日は、陽の気が最も高まるといわれている。
強すぎる陽の気は、祓わねばならぬ。
しかし、陽気が強まることはめでたいことでもある。
凶兆を吉祥と読み替え、克服するのが、人のふてぶてしいまでの知恵であろう。
吉凶が本当かどうか、曹丕はさして興味がない。
興味があるとすれば、献上される香り高い菊花の数々や、廷臣官女が身に着ける茱萸を封じた錦繍の匂い袋の美々しさ、供される淳酒、あるいは、華やいだ空気。
要するに、生きた人間の営みなのだ。



黎明の室内を見渡せば、弟から贈られた菊花が目に留まる。
鮮やかな黄色は、薄暗い部屋の中で灯火のように映える。
あと二時もすれば、魏国総出の登高そして宴が始まる。
朝廷へ見せ付ける肚積りなのは明らかだが、表向きはあくまでも「魏公家の私的な節句」ということらしい。
宴は嫌いではない。
むしろ好きなほうだが、政治的な思惑の絡む宴席は、自制して振舞わねばならぬ窮屈さがある。
曹丕の今の立場では、酔うことすらままならない。
「中郎将さま、よろしいですか?」
物思いにふけっていた思考が、現実に呼び戻された。
誰何するまでもない。
よく知った声だ。
「元常どのか、入られよ」
「お邪魔しますよ」
扉からするりと入ってきた鍾繇は、曹丕の前に座るやいなや、袂から壺と杯を取り出した。
「良い酒が献じられてきましたので、一献、いかがかな?」
にこにこと勧める様子に、曹丕は苦笑を禁じえない。
「気の早いことだ」
「どうせ二時もすれば、みんな酒盛りですよ」
悪びれもせず言い切ると、返事も聞かずに酒壺を開ける。
よほどの美酒らしく、それだけでふわりと酒の匂いが鼻腔をくすぐる。
「この香りは…菊だな」
「ご明察。一晩、菊の花を漬けて、香りが付いたら取り出すんですよ。だから、余計な苦味もなく、菊の香気だけが残る」
どうぞ、と差し出された杯からは、芳香がとめどなく溢れ、簡単の溜息が出る。
「見事だ…」
「でしょう?公子さまなら絶対にお気に召すと思いましてね」
してやったりと笑う鍾繇に、曹丕もつられて笑う。
「そなたには敵わん…」
鍾繇と曹丕とは、嗜好が驚くほど似ていた。
親子ほど年が離れながら、文物の独特な好みが面白いほど合うのだ。
「では」
「頂くとしましょうか」
杯を掲げ、ぐっと干せば、まろみの中に菊の芳香が広がり、程よい甘味が喉を通り過ぎる。
「美味い」
「ご満足いただけたなら、私も嬉しうございますよ」
惚れ惚れとした口調で微笑む曹丕に、鍾繇は満足そうに目を細めた。
「今後は、これほど心から楽しんで酒は飲めまいな…」
朱塗りの杯を眺めながら呟く曹丕に、鍾繇は意外そうな面持ちを隠せない。
「どうした、そんな顔をして…」
「ああ、いえ…あなたがそんなお顔をお見せになるのは、珍しいと思いましてね…」
「私とて、何時も気を張るばかりではいられぬよ」
ほろ苦い微笑を浮かべたが、すぐに不敵な笑みに変えて、杯を差し出した。
「もう一杯、どうだ?」
「よろしうございます」
言ってから、ふと、何かを思い出したのか、鍾繇は懐を探った。
「ああ、あった」
見れば、小さな真綿のかたまり。
それを注意深く広げれば、白い菊花が現われた。
「やはり、これがなくては」
にっこりと笑い、花弁の幾ひらかを酒に散らす。
それは、淡い霧の中に漂うかのようだった。
「公子さま、めでたい酒を召し上がるときは、何も考えてはいけません」
自身の杯にも並々と酒を注ぎ、鍾繇は笑いかける。
「人の一生など、はかなく、茫漠たるものです」
言うや否や、ぐっと、一息に酒を干す。
「だから、酔えるときは思い切り酔うてしまいましょう。ね?」
笑いかける鍾繇を見たとき、曹丕の脳裏に、ある言葉が蘇った。

幽思、忘れ難し
何を以てか憂いを忘れん
唯だ杜康有るべし

「まったくその通りだ」
曹丕は笑って、杯を掲げる。
「唯だ杜康有るべし、だ」
鍾繇は意外な文句が出てきたことに驚いたが、すぐに満足そうな笑顔になる。
「仰るとおりです」



小さな壺に満たされた酒は、ちょうど一献で尽きた。
香気は強いが酒精は弱いのか、酔いが回る気配はない。
外は既に明るい。
参殿する頃合になったようだ。
「馳走になったな」
「いえいえ」
部屋を出ようとしたとき、ふと、曹丕は引き返した。
「忘れるところであった」
その手には、一輪の黄菊。
驚いたように見つめる鍾繇へ、曹丕は笑い返した。
「そなたにも、いよいよの寿命があるように」



後刻、高台で賑やかに行なわれる讌の席。
曹操は小声で、傍らの鍾繇に問うた。
「なあ、元常、今日は子桓が珍しくよう笑っておるな」
問われた鍾繇は、しかし、ほろ酔いの目元を和ませ、首をかしげるだけだ。
「はて…宴の席でございますからな。中郎将様も嬉しくておられるのでしょう」
「そんなものかな…」
「左様でしょう」
にこやかにはぐらかす鍾繇の、簪には黄色い菊の花が挿されていた。





[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ