九月の九日は、陽の気が最も高まるといわれている。 強すぎる陽の気は、祓わねばならぬ。 しかし、陽気が強まることはめでたいことでもある。 凶兆を吉祥と読み替え、克服するのが、人のふてぶてしいまでの知恵であろう。 吉凶が本当かどうか、曹丕はさして興味がない。 興味があるとすれば、献上される香り高い菊花の数々や、廷臣官女が身に着ける茱萸を封じた錦繍の匂い袋の美々しさ、供される淳酒、あるいは、華やいだ空気。 要するに、生きた人間の営みなのだ。 黎明の室内を見渡せば、弟から贈られた菊花が目に留まる。 鮮やかな黄色は、薄暗い部屋の中で灯火のように映える。 あと二時もすれば、魏国総出の登高そして宴が始まる。 朝廷へ見せ付ける肚積りなのは明らかだが、表向きはあくまでも「魏公家の私的な節句」ということらしい。 宴は嫌いではない。 むしろ好きなほうだが、政治的な思惑の絡む宴席は、自制して振舞わねばならぬ窮屈さがある。 曹丕の今の立場では、酔うことすらままならない。 「中郎将さま、よろしいですか?」 物思いにふけっていた思考が、現実に呼び戻された。 誰何するまでもない。 よく知った声だ。 「元常どのか、入られよ」 「お邪魔しますよ」 扉からするりと入ってきた鍾繇は、曹丕の前に座るやいなや、袂から壺と杯を取り出した。 「良い酒が献じられてきましたので、一献、いかがかな?」 にこにこと勧める様子に、曹丕は苦笑を禁じえない。 「気の早いことだ」 「どうせ二時もすれば、みんな酒盛りですよ」 悪びれもせず言い切ると、返事も聞かずに酒壺を開ける。 よほどの美酒らしく、それだけでふわりと酒の匂いが鼻腔をくすぐる。 「この香りは…菊だな」 「ご明察。一晩、菊の花を漬けて、香りが付いたら取り出すんですよ。だから、余計な苦味もなく、菊の香気だけが残る」 どうぞ、と差し出された杯からは、芳香がとめどなく溢れ、簡単の溜息が出る。 「見事だ…」 「でしょう?公子さまなら絶対にお気に召すと思いましてね」 してやったりと笑う鍾繇に、曹丕もつられて笑う。 「そなたには敵わん…」 鍾繇と曹丕とは、嗜好が驚くほど似ていた。 親子ほど年が離れながら、文物の独特な好みが面白いほど合うのだ。 「では」 「頂くとしましょうか」 杯を掲げ、ぐっと干せば、まろみの中に菊の芳香が広がり、程よい甘味が喉を通り過ぎる。 「美味い」 「ご満足いただけたなら、私も嬉しうございますよ」 惚れ惚れとした口調で微笑む曹丕に、鍾繇は満足そうに目を細めた。 「今後は、これほど心から楽しんで酒は飲めまいな…」 朱塗りの杯を眺めながら呟く曹丕に、鍾繇は意外そうな面持ちを隠せない。 「どうした、そんな顔をして…」 「ああ、いえ…あなたがそんなお顔をお見せになるのは、珍しいと思いましてね…」 「私とて、何時も気を張るばかりではいられぬよ」 ほろ苦い微笑を浮かべたが、すぐに不敵な笑みに変えて、杯を差し出した。 「もう一杯、どうだ?」 「よろしうございます」 言ってから、ふと、何かを思い出したのか、鍾繇は懐を探った。 「ああ、あった」 見れば、小さな真綿のかたまり。 それを注意深く広げれば、白い菊花が現われた。 「やはり、これがなくては」 にっこりと笑い、花弁の幾ひらかを酒に散らす。 それは、淡い霧の中に漂うかのようだった。 「公子さま、めでたい酒を召し上がるときは、何も考えてはいけません」 自身の杯にも並々と酒を注ぎ、鍾繇は笑いかける。 「人の一生など、はかなく、茫漠たるものです」 言うや否や、ぐっと、一息に酒を干す。 「だから、酔えるときは思い切り酔うてしまいましょう。ね?」 笑いかける鍾繇を見たとき、曹丕の脳裏に、ある言葉が蘇った。 幽思、忘れ難し 何を以てか憂いを忘れん 唯だ杜康有るべし 「まったくその通りだ」 曹丕は笑って、杯を掲げる。 「唯だ杜康有るべし、だ」 鍾繇は意外な文句が出てきたことに驚いたが、すぐに満足そうな笑顔になる。 「仰るとおりです」 小さな壺に満たされた酒は、ちょうど一献で尽きた。 香気は強いが酒精は弱いのか、酔いが回る気配はない。 外は既に明るい。 参殿する頃合になったようだ。 「馳走になったな」 「いえいえ」 部屋を出ようとしたとき、ふと、曹丕は引き返した。 「忘れるところであった」 その手には、一輪の黄菊。 驚いたように見つめる鍾繇へ、曹丕は笑い返した。 「そなたにも、いよいよの寿命があるように」 後刻、高台で賑やかに行なわれる讌の席。 曹操は小声で、傍らの鍾繇に問うた。 「なあ、元常、今日は子桓が珍しくよう笑っておるな」 問われた鍾繇は、しかし、ほろ酔いの目元を和ませ、首をかしげるだけだ。 「はて…宴の席でございますからな。中郎将様も嬉しくておられるのでしょう」 「そんなものかな…」 「左様でしょう」 にこやかにはぐらかす鍾繇の、簪には黄色い菊の花が挿されていた。 |