書架

□明時潸玄
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「昏い」

呟きが、真昼の静かな室内に漏れた。
控えていた司馬懿は、それを聞きつけて寝台へ近づいた。
「いかがなさいました、我が君」
そっと、帳越しに声をかける。
よく晴れ渡った、すがすがしい初夏の午後。暗かろう筈はないのだが。
「昏い……昏い……」
帳の中に臥す影は、うわ言のように繰り返す。そして、深く、沈んだ息を吐いた。
司馬懿は、白い手を紗の帳に掛けながら、優しく答える。
「帳を下ろしておりますゆえ……。お開けいたしましょうか」
「ああ……」
では、と、半分だけ引き開ける。寝台の中へ光が差し込んだ。
日の光に現われた曹丕の、一段とやつれた容子に、心が痛む。
臥所にこもる病の陰気も切り裂いてくれればよいのに、と、まばゆい光を見ながら思った。

「仲達」

静かだが毅い声に、物思いにふけっていた司馬懿は我に返る。
窓を見れば、日が傾いてきているのが判った。
その光輝に照らされて、高い鼻梁が青白い頬へ濃い影を投げかける。
「いかがなさいましたか…?」
問えば、曹丕は僅かに息を吐いて体を起こす。
魏の皇帝という矜持がそうさせるのか、病床にあって、少しずつ衰え続けている今も、寝食に他者の手を借りたがらない。
思わず背を支えそうになる己が腕を、司馬懿は震えながら抑えた。
(おやめください…子桓様…)
そう、心の中で呟きながら。
「仲達」
いつの間にうつむいていたのか。
はっと顔を上げた司馬懿の目と、静かに微笑む曹丕の目が合った。
絶え間ない熱で面やつれした白皙の容貌が、こんなに穏やかな表情を浮かべたのは久方ぶりのこと。
しかし、その静謐とした空気は、司馬懿の胸に不安ばかりをもたらす。

どうして。

どうして、此処はこんなにも静かなのだろう。

「ここは、静か過ぎます」
その呟きすら、差し込む夕暉のさざなみに溶けていく。
「静寂は嫌いか」
「今は」
「そうか」
今にも涙を零してしまいそうな声に、曹丕はくすりと笑い、最愛の人を手招いた。
彼の人が歩むたび、床へは透明な珠が飛び散る。
枕席へぐったりと跪いた、その肩を、そっと抱きしめてやれば。
いつもの矜持をかなぐり捨てたように、縋り付いてきた。
「泣いてくれるな」
「できません…」
「頼むから」
「いいえ…いいえ…!お許しください…私は、厭です…!」
血を吐くような苦呻に、歔唏が重なった。
「仲達…」



別れの言葉など言えようか、それがいつ訪れるとも知らないのに。
生ける人を悼むことなどできようか、未だ天命は尽きぬというのに。

それでは何のために涙するのか。

それは

全てが逃れられぬ別れのためなのだと。







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