「昏い」 呟きが、真昼の静かな室内に漏れた。 控えていた司馬懿は、それを聞きつけて寝台へ近づいた。 「いかがなさいました、我が君」 そっと、帳越しに声をかける。 よく晴れ渡った、すがすがしい初夏の午後。暗かろう筈はないのだが。 「昏い……昏い……」 帳の中に臥す影は、うわ言のように繰り返す。そして、深く、沈んだ息を吐いた。 司馬懿は、白い手を紗の帳に掛けながら、優しく答える。 「帳を下ろしておりますゆえ……。お開けいたしましょうか」 「ああ……」 では、と、半分だけ引き開ける。寝台の中へ光が差し込んだ。 日の光に現われた曹丕の、一段とやつれた容子に、心が痛む。 臥所にこもる病の陰気も切り裂いてくれればよいのに、と、まばゆい光を見ながら思った。 「仲達」 静かだが毅い声に、物思いにふけっていた司馬懿は我に返る。 窓を見れば、日が傾いてきているのが判った。 その光輝に照らされて、高い鼻梁が青白い頬へ濃い影を投げかける。 「いかがなさいましたか…?」 問えば、曹丕は僅かに息を吐いて体を起こす。 魏の皇帝という矜持がそうさせるのか、病床にあって、少しずつ衰え続けている今も、寝食に他者の手を借りたがらない。 思わず背を支えそうになる己が腕を、司馬懿は震えながら抑えた。 (おやめください…子桓様…) そう、心の中で呟きながら。 「仲達」 いつの間にうつむいていたのか。 はっと顔を上げた司馬懿の目と、静かに微笑む曹丕の目が合った。 絶え間ない熱で面やつれした白皙の容貌が、こんなに穏やかな表情を浮かべたのは久方ぶりのこと。 しかし、その静謐とした空気は、司馬懿の胸に不安ばかりをもたらす。 どうして。 どうして、此処はこんなにも静かなのだろう。 「ここは、静か過ぎます」 その呟きすら、差し込む夕暉のさざなみに溶けていく。 「静寂は嫌いか」 「今は」 「そうか」 今にも涙を零してしまいそうな声に、曹丕はくすりと笑い、最愛の人を手招いた。 彼の人が歩むたび、床へは透明な珠が飛び散る。 枕席へぐったりと跪いた、その肩を、そっと抱きしめてやれば。 いつもの矜持をかなぐり捨てたように、縋り付いてきた。 「泣いてくれるな」 「できません…」 「頼むから」 「いいえ…いいえ…!お許しください…私は、厭です…!」 血を吐くような苦呻に、歔唏が重なった。 「仲達…」 別れの言葉など言えようか、それがいつ訪れるとも知らないのに。 生ける人を悼むことなどできようか、未だ天命は尽きぬというのに。 それでは何のために涙するのか。 それは 全てが逃れられぬ別れのためなのだと。 了 |