書架

□華蝕
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「元仲様」

目を開けると、見慣れた黒い衣が映った。
次いで、見慣れた顔と見慣れた眼差し。
「元仲様?」
僅かに表情を曇らせる司馬師が、目に入っているのかいないのか。
曹叡は霞がかった視界を瞬かせ、ようやく、目の前に誰がいるのか気付いた。
「……子元」
まだ、声がうまく出ない。かすれて、泣いているように聞こえた。
「いかがなさいましたか」
長い指が、曹叡の濡れた眦をぬぐった。
瞑目しながら、静かに涙を流している主に驚き、起こしてみたが。
「悪い夢でも、ご覧になりましたか」
問われて、曹叡は小さく首を振る。
「悲しい夢」
「そうですか……」
そう言って、頬に差し伸べられた手のぬくもりは、まるで夢の続きのようで。
そのまま、黒い朝服を引き寄せ、胸元へすがりついた。
司馬師は驚いて何か言いかけたが、黒髪から覗く白い肩が震えるのを見てしまっては、何も言えなかった。
美しい黒髪ごと白皙の体を引き寄せ、なだめるように背中を撫でる。
「お側にいても、よろしいか?」
応えるように、縋り付く手に力が込められる。
「承知いたしました」
抱きしめる腕に、優しく力を込めた。



と、扉の向こうから、どこかそっけない声が聞こえた。
「殿下、お目覚めください。朝議まで一時ですぞ」
司馬師は溜息をついて、扉を開けた。
「これは…兄上。」
ますます憮然とした面持ちになる弟を見て、司馬師の溜息は深まる。
「今日の殿下は、いささか体調がよろしくない。そう父上にお伝えしろ。」
はい、と、司馬昭は態度こそ素直に引き下がったが、刺すような眼差しを部屋の奥へ向けている。
「昭」
「なんです」
「何を怒っているのだ」
「別に。兄上が侍従と同列に扱われていることに、いささか傷ついているだけです」
それを聞くと、司馬師は不快そうに眉をひそめた。
「お前の与り知るところではない」
言うだけ言うと、さっさと扉を閉めた。

音を立てて閉められた扉を睨みつけ、司馬昭は悔しそうに唇を噛んだ。扉の向こうから、兄の優しい響きの言葉が漏れ聞こえてくれば尚更。
(――どうして、あいつなのだ)
兄の愛情に甘えて、女官や小姓のような扱いをするような男ではないか、と。
そう、思おうとした。
しかし、真実はまごうことなき“嫉妬”であって――。
ぎりっと奥歯をかみ締める司馬昭の耳へ、微かに室内の会話が聞こえてくる。
「お前に髪を梳いてもらうと、安心する」
「それは光栄です」
「子元の好きに結ってくれ」
「嬉しいことを仰る」
「嫌か?」
「ふふ、まさか…」
扉の奥で、微かな笑い声が重なり合う。
睦言を耳から締め出すように、勢いよく背を向けて室を後にした。


「私は、子上の目には適っていないようだな」
鬢の一つまみをもてあそびながら、曹叡は苦笑気味に呟く。
「こんな我侭な皇子では、当たり前といえば当たり前だが……」
丈なす翠髪を結い上げながら、司馬師は複雑な想いで主の言葉を聞いていた。
弟の、他人には潔癖とうつる行状の理由を薄々ながら察していた。
それは、どうあっても目の前の主とは相容れない感情で。
「いえ、あれは己を少々、誇りすぎています。君臣の礼を忘れる非は、正さなくては…」
「あまり、きつく言ってやるな。ゆくゆくは能吏に育つだろう子だ」
櫛に嵌められた大粒の真珠をなぞりながら、曹叡は笑った。
生真面目な司馬師をたしなめたのだ。
「元仲様」
「どうした――」
子元、と続けようとしたが、できなかった。
後ろからふわりと抱きすくめられて、言葉が続かない。
「あなたは、私のものですよ」
ひそやかな囁き。
この上なく不遜で背徳的なその言葉に、しかし、曹叡は妖艶な微笑を浮かべる。
「弟に嫉妬か?子元…」
「いかようにも…」





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