「元仲様」 目を開けると、見慣れた黒い衣が映った。 次いで、見慣れた顔と見慣れた眼差し。 「元仲様?」 僅かに表情を曇らせる司馬師が、目に入っているのかいないのか。 曹叡は霞がかった視界を瞬かせ、ようやく、目の前に誰がいるのか気付いた。 「……子元」 まだ、声がうまく出ない。かすれて、泣いているように聞こえた。 「いかがなさいましたか」 長い指が、曹叡の濡れた眦をぬぐった。 瞑目しながら、静かに涙を流している主に驚き、起こしてみたが。 「悪い夢でも、ご覧になりましたか」 問われて、曹叡は小さく首を振る。 「悲しい夢」 「そうですか……」 そう言って、頬に差し伸べられた手のぬくもりは、まるで夢の続きのようで。 そのまま、黒い朝服を引き寄せ、胸元へすがりついた。 司馬師は驚いて何か言いかけたが、黒髪から覗く白い肩が震えるのを見てしまっては、何も言えなかった。 美しい黒髪ごと白皙の体を引き寄せ、なだめるように背中を撫でる。 「お側にいても、よろしいか?」 応えるように、縋り付く手に力が込められる。 「承知いたしました」 抱きしめる腕に、優しく力を込めた。 と、扉の向こうから、どこかそっけない声が聞こえた。 「殿下、お目覚めください。朝議まで一時ですぞ」 司馬師は溜息をついて、扉を開けた。 「これは…兄上。」 ますます憮然とした面持ちになる弟を見て、司馬師の溜息は深まる。 「今日の殿下は、いささか体調がよろしくない。そう父上にお伝えしろ。」 はい、と、司馬昭は態度こそ素直に引き下がったが、刺すような眼差しを部屋の奥へ向けている。 「昭」 「なんです」 「何を怒っているのだ」 「別に。兄上が侍従と同列に扱われていることに、いささか傷ついているだけです」 それを聞くと、司馬師は不快そうに眉をひそめた。 「お前の与り知るところではない」 言うだけ言うと、さっさと扉を閉めた。 音を立てて閉められた扉を睨みつけ、司馬昭は悔しそうに唇を噛んだ。扉の向こうから、兄の優しい響きの言葉が漏れ聞こえてくれば尚更。 (――どうして、あいつなのだ) 兄の愛情に甘えて、女官や小姓のような扱いをするような男ではないか、と。 そう、思おうとした。 しかし、真実はまごうことなき“嫉妬”であって――。 ぎりっと奥歯をかみ締める司馬昭の耳へ、微かに室内の会話が聞こえてくる。 「お前に髪を梳いてもらうと、安心する」 「それは光栄です」 「子元の好きに結ってくれ」 「嬉しいことを仰る」 「嫌か?」 「ふふ、まさか…」 扉の奥で、微かな笑い声が重なり合う。 睦言を耳から締め出すように、勢いよく背を向けて室を後にした。 「私は、子上の目には適っていないようだな」 鬢の一つまみをもてあそびながら、曹叡は苦笑気味に呟く。 「こんな我侭な皇子では、当たり前といえば当たり前だが……」 丈なす翠髪を結い上げながら、司馬師は複雑な想いで主の言葉を聞いていた。 弟の、他人には潔癖とうつる行状の理由を薄々ながら察していた。 それは、どうあっても目の前の主とは相容れない感情で。 「いえ、あれは己を少々、誇りすぎています。君臣の礼を忘れる非は、正さなくては…」 「あまり、きつく言ってやるな。ゆくゆくは能吏に育つだろう子だ」 櫛に嵌められた大粒の真珠をなぞりながら、曹叡は笑った。 生真面目な司馬師をたしなめたのだ。 「元仲様」 「どうした――」 子元、と続けようとしたが、できなかった。 後ろからふわりと抱きすくめられて、言葉が続かない。 「あなたは、私のものですよ」 ひそやかな囁き。 この上なく不遜で背徳的なその言葉に、しかし、曹叡は妖艶な微笑を浮かべる。 「弟に嫉妬か?子元…」 「いかようにも…」 |