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□華蝕
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縁談を聞かされたとき、自分でも不思議なほど落ち着いていた。
遅かれ早かれ、こうなることは解っていた。
名門・司馬氏の嫡男が成人して妻の一人もいないなど、許されないのだと。
相手の名を聞いたとき、それはどうにも断りようがないのだということも、司馬師には解っていた。







「縁談…でございますか」
司馬懿の言葉に、曹丕は軽く頷いた。
「伯仁に、もうすぐ笄年の女がいる。お前の長子と年も近い。似合いだと思ってな」
伯仁、という名に、司馬懿の眉宇が僅かに曇った。
「征南将軍のご息女…」
珍しく確認する、その呟きに、曹丕は気まずそうに視線をそらした。
「命令ではない」
言ってから、姑息だと思ったのか嘆息する。

夏侯伯仁―諱を尚―は、曹丕のいとこで親友。
有能な軍政官であり征南大将軍に任ぜられていた。
だが、曹真の妹で正室の徳陽郷主を顧みず、愛妾を溺愛するようになったことで、曹丕との関係は次第に悪化していった。
昨年の暮れ、突如として病に倒れて以後、朝廷に姿を見せることはなかった。
近頃では食事すら拒み、衰弱して、死が近いと囁かれていた。
戦場育ちの頑健な彼が何故、と、当初は訝しがられたが、その原因はすぐさま――しかし極秘の建前で――広まった。
皇帝によって愛妾を惨殺され、精神を病んでしまったのだ、と。
司馬懿たち廷臣の耳には、墓から掘り起こした遺体を生前と同じように愛玩している、というおぞましい噂も届いている。
皇帝との因縁を持つ上、そんな評判が立っては、いかな宗室の令嬢であろうと縁遠くなるのも無理はない。

「一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「夏侯のご息女の母君は、どなたですか」
「子丹の妹だ」
「徳陽郷主さま…」
それを聞くと、曹丕がこんな縁談を持ちかけてきたのにも得心がいった。
曹真の姪とあれば、曹丕もその行く末に責任を持たねばならないだろう。
残酷で中途半端な情だと、自身が一番よく解っているのか、曹丕は再び嘆息した。
「いい、下がれ。この話は止める」
「いえ」
とっさに司馬懿は遮った。
「承らせて頂きます。宗室の婦人を愚息に賜るなど、畏れ多いことではございますが…」
深々と拝礼する司馬懿の表情は、玉座の上からは見えなかった。




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