書架

□頽英
1ページ/1ページ




読み終えた帛書の束を、その絹よりよほど白い手が無造作に放り投げた。
「僻地に安住しておればよいものを…」
「安住していれば、遠からず攻め潰される。それが解っているからこそ、あれは安住を拒むのですよ」
「…そうだな、あれほどの者は我が国にも稀だ。さすがは公が認めるだけある」
「ふふ……、光栄ですな」
含み笑いに、曹叡は少し驚いたように司馬懿を見た。
「陛下、いかがなさいましたか?」
「あ、…いや、いい」
笑い方が似ている。父子なのだから当然といえば当然だが。
「私めが、何かご無礼を申し上げましたか…?」
低く美しい声や、心配するときの優しい響きが、本当に似ている。
似ているから、苦しい。
「本当に何でもない、構うな」
「…承知いたしました」
父も、彼の静かな心を愛していたのだろう。
冷ややかで厳しいその心の、奥底を捉えることができた父は、何と幸せだったのかと思う。
「我が君…?」
どこか茫然とした沈黙を訝しむ司馬懿に、曹叡はゆっくりと首を振った。
「劉備は、諸葛亮との情誼を水と魚に例えたそうだ」
「左様に聞いております」
「遊ぶ大湖が小沼に変じても、魚は水の恩を忘れ得ぬものか」
美しい瞳が問いかける。司馬懿は、なぜか答えられず、沈黙するしかなかった。
「そなたが私に仕えるように、あの男も亡き主君を忘れ得ぬ――そういうことかもしれぬな」
「わたくしは……」
何か言わなければならないと解っていたが、この美しくも憂いに満ちた目に、何を申し上げられるだろう。
曹叡自身、あまり答えは期待していなかったようだ。彼は静かに、放り出した帛書をすくい上げた。
「惜しむらくは、その廉潔のゆえに勝ち目のない戦をするより他、己を生かせぬことだ」
彼がもっと冷酷で、野心に溢れているならば、その才智は中原へと還っていったことだろう。
「留まると、決意することは、実はずっと難しいであろう」
浅薄な者は、ただ怠惰に留まろうとして留まり、あるいは、流されて進んでいくのだ。
しかし、真実に優れた者は、己で決断し、己で留まると、あるいは進むと、決意するのだ。
「陛下は、あの男に何を見ておられるのですか」
尋ねた声は、司馬懿が意図するよりも尖った響きとなった。
見知らぬあの男を思いやるような、曹叡の穏やかな声が――司馬懿自身、信じられないことだが――不愉快だった。
「あえて戦の中に身を置くというのは、どのような思いなのだろうな」
信じ愛した主に先立たれて、なおその面影に仕えるには、何もかもを戦いの渦中に投げ出すことと同じだと、曹叡は言う。
「我が国とだけではない、その意図を解せぬ者、その才を忌避する者、それらと戦わねばならぬ…」
「陛下は、そのようにご覧になっているのですか」
誰のこととは、聞けなかった。
それは、国と人を変えるなら、彼自身になってしまうのだから。
その意図とは何だろう。今になって、彼と、彼が愛する人とを眼前に突きつける、その意図とは。

「わからない」

「わからない…?」
「そう、わからないのだ」
自分の身を置き去りにして、亡き人への想いを遂げることこそが、“人”の望みなのだろうか。
「私には、わからないのだ」
月のように白く冷たい顔が、わからない、と呟く。
その美しくも、どこか危うい姿に、司馬懿は暗澹たる思いで曹叡の心を悟らざるを得なかった。
(子元か……)
曹叡の心を唯一、完き心で愛することのできる存在。
その情愛が、玉座を、国土をも焼き滅ぼすほどの狂気によって支えられていることを、司馬懿は知っている。
だからこそ、曹叡は呟くのだ。
“わからない”――と。

「仲達」
司馬懿は顔を上げた。
思いつめたとき、名を呼ぶその響き。
あまりにも似すぎているのだ、この天子と、その父帝は。
「陛下」
「私には、亡き者の想いと共に生きると、そう生きることができると――その心がわからぬ」
「陛下…」
「それを確かめたい」
その微笑に宿る意思に、司馬懿は無言でうなづくしかなかった。

「私も征こう」

あの男の意思を、戦い続けるほど強靭に支える想いの程を、確かめたい。
亡き人の意思を抱いたまま、その人への想いを抱いたまま、戦うという選択をした男の戦を見たい。
「そなたと、あの男の戦を、見たい」
静かな声を聞いたとき、司馬懿はためらいや遠慮をかなぐり捨てた。
痩せた長い指が、艶やかな朝服を引き止めるように掴んだ。
「仲達……」
「陛下、それが、まことに陛下のお心ですか」
その意思は、あまりにも危うい美しさの上に在る。それは悲壮であり、あまりに哀れだ。
「それを、陛下はまことにご覧になりたいのですか」
違う、と言ってほしい。
綸言などと、つまらないことは捨て去って、どうか自分を傷つけるようなことはしないでほしい。
「陛下――」
すがるように請い願う手を、繊い手がそっと、握った。
「陛下……」
美しい唇は、閉じたまま、何も言わない。
その声は司馬懿だけが聴き取った。

裾を払うように、司馬懿は立ち上がった。
もはや、ここに留まることは戦の遅延だ。
「確かに、御聖慮を承りましてございます」
鋭く輝く狼の目を、月のない夜のような目が見つめた。
「全てを公に委ねる。そなたの成すべき戦をせよ」
「御意」
それで、全ては成り立った。

ただ、それが魏の――社稷を象る天子のために、最善であったのか。
司馬懿にはわからないままだったのだが。





[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ