読み終えた帛書の束を、その絹よりよほど白い手が無造作に放り投げた。 「僻地に安住しておればよいものを…」 「安住していれば、遠からず攻め潰される。それが解っているからこそ、あれは安住を拒むのですよ」 「…そうだな、あれほどの者は我が国にも稀だ。さすがは公が認めるだけある」 「ふふ……、光栄ですな」 含み笑いに、曹叡は少し驚いたように司馬懿を見た。 「陛下、いかがなさいましたか?」 「あ、…いや、いい」 笑い方が似ている。父子なのだから当然といえば当然だが。 「私めが、何かご無礼を申し上げましたか…?」 低く美しい声や、心配するときの優しい響きが、本当に似ている。 似ているから、苦しい。 「本当に何でもない、構うな」 「…承知いたしました」 父も、彼の静かな心を愛していたのだろう。 冷ややかで厳しいその心の、奥底を捉えることができた父は、何と幸せだったのかと思う。 「我が君…?」 どこか茫然とした沈黙を訝しむ司馬懿に、曹叡はゆっくりと首を振った。 「劉備は、諸葛亮との情誼を水と魚に例えたそうだ」 「左様に聞いております」 「遊ぶ大湖が小沼に変じても、魚は水の恩を忘れ得ぬものか」 美しい瞳が問いかける。司馬懿は、なぜか答えられず、沈黙するしかなかった。 「そなたが私に仕えるように、あの男も亡き主君を忘れ得ぬ――そういうことかもしれぬな」 「わたくしは……」 何か言わなければならないと解っていたが、この美しくも憂いに満ちた目に、何を申し上げられるだろう。 曹叡自身、あまり答えは期待していなかったようだ。彼は静かに、放り出した帛書をすくい上げた。 「惜しむらくは、その廉潔のゆえに勝ち目のない戦をするより他、己を生かせぬことだ」 彼がもっと冷酷で、野心に溢れているならば、その才智は中原へと還っていったことだろう。 「留まると、決意することは、実はずっと難しいであろう」 浅薄な者は、ただ怠惰に留まろうとして留まり、あるいは、流されて進んでいくのだ。 しかし、真実に優れた者は、己で決断し、己で留まると、あるいは進むと、決意するのだ。 「陛下は、あの男に何を見ておられるのですか」 尋ねた声は、司馬懿が意図するよりも尖った響きとなった。 見知らぬあの男を思いやるような、曹叡の穏やかな声が――司馬懿自身、信じられないことだが――不愉快だった。 「あえて戦の中に身を置くというのは、どのような思いなのだろうな」 信じ愛した主に先立たれて、なおその面影に仕えるには、何もかもを戦いの渦中に投げ出すことと同じだと、曹叡は言う。 「我が国とだけではない、その意図を解せぬ者、その才を忌避する者、それらと戦わねばならぬ…」 「陛下は、そのようにご覧になっているのですか」 誰のこととは、聞けなかった。 それは、国と人を変えるなら、彼自身になってしまうのだから。 その意図とは何だろう。今になって、彼と、彼が愛する人とを眼前に突きつける、その意図とは。 「わからない」 「わからない…?」 「そう、わからないのだ」 自分の身を置き去りにして、亡き人への想いを遂げることこそが、“人”の望みなのだろうか。 「私には、わからないのだ」 月のように白く冷たい顔が、わからない、と呟く。 その美しくも、どこか危うい姿に、司馬懿は暗澹たる思いで曹叡の心を悟らざるを得なかった。 (子元か……) 曹叡の心を唯一、完き心で愛することのできる存在。 その情愛が、玉座を、国土をも焼き滅ぼすほどの狂気によって支えられていることを、司馬懿は知っている。 だからこそ、曹叡は呟くのだ。 “わからない”――と。 「仲達」 司馬懿は顔を上げた。 思いつめたとき、名を呼ぶその響き。 あまりにも似すぎているのだ、この天子と、その父帝は。 「陛下」 「私には、亡き者の想いと共に生きると、そう生きることができると――その心がわからぬ」 「陛下…」 「それを確かめたい」 その微笑に宿る意思に、司馬懿は無言でうなづくしかなかった。 「私も征こう」 あの男の意思を、戦い続けるほど強靭に支える想いの程を、確かめたい。 亡き人の意思を抱いたまま、その人への想いを抱いたまま、戦うという選択をした男の戦を見たい。 「そなたと、あの男の戦を、見たい」 静かな声を聞いたとき、司馬懿はためらいや遠慮をかなぐり捨てた。 痩せた長い指が、艶やかな朝服を引き止めるように掴んだ。 「仲達……」 「陛下、それが、まことに陛下のお心ですか」 その意思は、あまりにも危うい美しさの上に在る。それは悲壮であり、あまりに哀れだ。 「それを、陛下はまことにご覧になりたいのですか」 違う、と言ってほしい。 綸言などと、つまらないことは捨て去って、どうか自分を傷つけるようなことはしないでほしい。 「陛下――」 すがるように請い願う手を、繊い手がそっと、握った。 「陛下……」 美しい唇は、閉じたまま、何も言わない。 その声は司馬懿だけが聴き取った。 裾を払うように、司馬懿は立ち上がった。 もはや、ここに留まることは戦の遅延だ。 「確かに、御聖慮を承りましてございます」 鋭く輝く狼の目を、月のない夜のような目が見つめた。 「全てを公に委ねる。そなたの成すべき戦をせよ」 「御意」 それで、全ては成り立った。 ただ、それが魏の――社稷を象る天子のために、最善であったのか。 司馬懿にはわからないままだったのだが。 |