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□puppy love
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「私ではないよ」

足音も荒く部屋へ押しかけてきた少年に、曹叡はにべもない。
何かとこちらを敵視してくる司馬昭は、曹叡の方も苦手だった。
「嘘を言わないで下さい。あなた以外、誰が兄上に告げ口するんです!?」
「……その口のきき方と、その声の大きさで、私の側仕えたちに聞こえないと思う方がどうかしているぞ」
「あっ…」
「お前の言葉づかいは繋といい勝負だな」
さすがに司馬昭はむっとした。
繋とは、曹叡夫人の虞氏のことだ。名家の出だが、育つに遠慮する者がいなかったせいか、人の心を斟酌した物言いができない娘だった。
「あの方と一緒にしないで下さい。少なくとも、人様のお身内を悪く言って、いい気になる趣味は私にはありません」
どうやら彼は大真面目らしい。
曹叡は少し、安心した。
「…何がおかしいんですか」
目ざとい子だ、と思った。が、安堵の笑みとは解らないらしい。
面倒な子だ、とも思った。
「用がそれだけなら、もうお帰り」
「あなたは」
「……?」
振り向くと、帰りたいのを必死に堪えているのだろう、顔を真っ赤にした司馬昭と目が合った。
「あなたは、どうして兄のことが好きなのですか」
「子上…」
あまりの真剣さに笑いがこみ上げてきたが、やめた。
この子は、曹叡にだけは弱みを見せたくないはずだ。
「そうだな…」
少し、いじめてやりたくなった。
だから、素直に、この子にとって最も聞きたくないだろう、本当のことを教えてやる。

「子元だけが、私を心から欲しがってくれるから」

子供には不釣り合いな、切れ長のいかにも犀利な目が、大きくしばたいた。
「…それだけ…?」
「そう、それだけ」
今度は、戸惑っている。
忙しい子だ、と思った。
「…それだけ……」
小さく呟いた少年は、それきり黙って、視線をいったりきたりさせている。
彼の中で、彼が予想していた長い言葉を、予想していなかった短い言葉に置き換えているのだろう。
「そんなに考えなくとも――」
ぱっ、と、利かん気の強そうな顔が、次の言葉を待ち構えて跳ね上がる。
「そういうものだと、思えばいい」
でなければ、曹叡だって、説明のしようがないのだから。
「ほんとうに…?」
「うん」
何度聞いても、この美しい人は小憎らしいほど整った微笑で、頷いてしかくれないのだろう。
上げた顔が下げられなくて、司馬昭は目をそらした。
綾織の袖の向こうで、小さな香炉がのんびりと香気をはき出している。青銅の月の上で暢気に丸まっている、銀の玉兎が小面憎い。
「ほんとうに、それだけで?」
「お前は、子元を愛するのに、一つひとつ訳を考えるのか?」
「…いいえ」
「ならば、そういうことなのだよ」
戸惑う司馬昭が、少し、かわいらしく思えた。
「子元にも聞いてごらん」
水を向けるが、司馬昭は珍しくまごついている。
「兄上に、叱られます…」
「なぜ?」
「…殿下に失礼なことを聞いたからと……今度こそ、本当に嫌われます…」

この子は、ほんとうに子供なのだと、ちょっとおかしくなった。

それから、司馬昭を部屋から帰すのに、もうひとつ時が要った。
「言わないで下さいね」
「言わないよ、告げ口など私の趣味でなし…」
「約束ですよ、殿下」
なだめてもすかしても食い下がるのは煩かったが、珍しいこともあるものだ。
大嫌いなはずの曹叡の宮殿に、こんなに居座ったのは初めてだ。
ふと、言葉が口をついて出た。
「また遊びにおいで」
司馬昭の唇が、言葉の続きでぽかんと止まってしまった。
嬉しいのか照れているのか、白い頬が真っ赤になっている。
「私は……」
小さな唇が、頑固そうにぎゅっと閉じた。
「殿下には負けませんよ!」
そう言いながら、部屋を去るのに儀礼どおり一礼したのが、ちょっとかわいらしかった。

「あの子…」
怒ったような後ろ姿を、曹叡は複雑な思いで見送る。
子供特有の、かん高く澄んだ声が、ほんの少しかすれていた。
「もう、大人になってしまうんだな」

本当の取り合いになってしまったら、司馬師はどちらを選ぶんだろうか。

それが、少し寂しかった。






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