「私ではないよ」 足音も荒く部屋へ押しかけてきた少年に、曹叡はにべもない。 何かとこちらを敵視してくる司馬昭は、曹叡の方も苦手だった。 「嘘を言わないで下さい。あなた以外、誰が兄上に告げ口するんです!?」 「……その口のきき方と、その声の大きさで、私の側仕えたちに聞こえないと思う方がどうかしているぞ」 「あっ…」 「お前の言葉づかいは繋といい勝負だな」 さすがに司馬昭はむっとした。 繋とは、曹叡夫人の虞氏のことだ。名家の出だが、育つに遠慮する者がいなかったせいか、人の心を斟酌した物言いができない娘だった。 「あの方と一緒にしないで下さい。少なくとも、人様のお身内を悪く言って、いい気になる趣味は私にはありません」 どうやら彼は大真面目らしい。 曹叡は少し、安心した。 「…何がおかしいんですか」 目ざとい子だ、と思った。が、安堵の笑みとは解らないらしい。 面倒な子だ、とも思った。 「用がそれだけなら、もうお帰り」 「あなたは」 「……?」 振り向くと、帰りたいのを必死に堪えているのだろう、顔を真っ赤にした司馬昭と目が合った。 「あなたは、どうして兄のことが好きなのですか」 「子上…」 あまりの真剣さに笑いがこみ上げてきたが、やめた。 この子は、曹叡にだけは弱みを見せたくないはずだ。 「そうだな…」 少し、いじめてやりたくなった。 だから、素直に、この子にとって最も聞きたくないだろう、本当のことを教えてやる。 「子元だけが、私を心から欲しがってくれるから」 子供には不釣り合いな、切れ長のいかにも犀利な目が、大きくしばたいた。 「…それだけ…?」 「そう、それだけ」 今度は、戸惑っている。 忙しい子だ、と思った。 「…それだけ……」 小さく呟いた少年は、それきり黙って、視線をいったりきたりさせている。 彼の中で、彼が予想していた長い言葉を、予想していなかった短い言葉に置き換えているのだろう。 「そんなに考えなくとも――」 ぱっ、と、利かん気の強そうな顔が、次の言葉を待ち構えて跳ね上がる。 「そういうものだと、思えばいい」 でなければ、曹叡だって、説明のしようがないのだから。 「ほんとうに…?」 「うん」 何度聞いても、この美しい人は小憎らしいほど整った微笑で、頷いてしかくれないのだろう。 上げた顔が下げられなくて、司馬昭は目をそらした。 綾織の袖の向こうで、小さな香炉がのんびりと香気をはき出している。青銅の月の上で暢気に丸まっている、銀の玉兎が小面憎い。 「ほんとうに、それだけで?」 「お前は、子元を愛するのに、一つひとつ訳を考えるのか?」 「…いいえ」 「ならば、そういうことなのだよ」 戸惑う司馬昭が、少し、かわいらしく思えた。 「子元にも聞いてごらん」 水を向けるが、司馬昭は珍しくまごついている。 「兄上に、叱られます…」 「なぜ?」 「…殿下に失礼なことを聞いたからと……今度こそ、本当に嫌われます…」 この子は、ほんとうに子供なのだと、ちょっとおかしくなった。 それから、司馬昭を部屋から帰すのに、もうひとつ時が要った。 「言わないで下さいね」 「言わないよ、告げ口など私の趣味でなし…」 「約束ですよ、殿下」 なだめてもすかしても食い下がるのは煩かったが、珍しいこともあるものだ。 大嫌いなはずの曹叡の宮殿に、こんなに居座ったのは初めてだ。 ふと、言葉が口をついて出た。 「また遊びにおいで」 司馬昭の唇が、言葉の続きでぽかんと止まってしまった。 嬉しいのか照れているのか、白い頬が真っ赤になっている。 「私は……」 小さな唇が、頑固そうにぎゅっと閉じた。 「殿下には負けませんよ!」 そう言いながら、部屋を去るのに儀礼どおり一礼したのが、ちょっとかわいらしかった。 「あの子…」 怒ったような後ろ姿を、曹叡は複雑な思いで見送る。 子供特有の、かん高く澄んだ声が、ほんの少しかすれていた。 「もう、大人になってしまうんだな」 本当の取り合いになってしまったら、司馬師はどちらを選ぶんだろうか。 それが、少し寂しかった。 |