書架・二

□蝶三態〜曹丕〜
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 自身の府第へ戻る中途、白い蝶を見た。
 陽光で真っ白に見えた、それは薄汚れた灰色の羽の蝶。破れかけた羽で秋蘭の花弁にしがみついている。
 そのままじっとしているので、死んだかと見れば、かろうじて二度、三度、羽を震わせる。
 死にかけた者が思い出したように目を開く光景に似ていた。
 見るともなく眺めやる曹丕の視線の先で、蝶はよたよたと羽を動かし、そのはずみで一段下の花群に落ちてしまった。
(ああ、こいつ、死にかけだな)
 いまだせわしなく花にたかる蝶が、なんとなく曹丕の癇に障った。
 死にかけているなら、大人しく花にうずもれていればいいのだ。それを理解せず、あがくように飛び回る様子は、いかにも愚かしく、無様に見えた。
(いつ死ぬんだろう…)
 冷え切った内心で、そんなことだけが気になって、ぼんやりと蝶の惑乱を眺めていた。

 庭園に臨む回廊に、曹丕がいた。
 欄干にもたれ、頬杖をついて、どこか憂鬱な横顔をさらけ出している。
 普段の勝ち気な端正さが薄れると、幽艶に陰る美貌が姿を現す。そんな時の曹丕は、実に蠱惑的で、実に陰鬱な顔をしている。
 憂愁の美貌が彼の本質であれば、そのとき彼が感じる孤独と暗い哀しみこそ、彼の本性なのかもしれない――司馬懿は、そう思っている。

「長公子」
 司馬懿の声に、曹丕は一瞥だけ返すと、すぐに視線は庭先へ向けられた。
「何をご覧に?」
「蝶だ」
 目を移すと、なるほど少し離れた秋蘭に蝶がいる。ただ、薄汚れた蝶一匹、彼がなぜ関心を持つのか解らない。
 と、どこか冷めた目で、曹丕はこちらを振り返った。
「無様がすぎて哀れでな。いつ死ぬのか、見ていたくなった」
 蝶は先程から、花にまとわりつこうとしては均衡を崩し、一段、また一段と、花の群れから滑り落ちている。
 手足も弱っているのか、一つの花に長くしがみつくことすらできない。
 死にかけているくせに、自覚がないようにせわしなく飛び回っては、自ら墜落していく。
「あれが人であれば、哀れを通り越して、憎しみしか覚えなくなる」
 ただ、と曹丕は言う。
「もとより愚かで考えの足りぬ者であれば、致し方ないと、諦めもつくのだろうがな」
 吐き捨てるように呟いて、秋蘭の一本を手折った。それで地面に落ちた蝶を掬い上げると、花群の一番上に放してやった。
「飽きた。…行こう、仲達」
 今度こそ大人しく花に止まる蝶を、曹丕は見向きもしなかった。



 曹丕が室を出たとき、一瞬、秋蘭の香が吹き抜けていった。
「蕭瑟として草木の揺落し、変じ衰えり」
 物憂げに呟いた表情が、みるみるうちに険しく変じた。
 司馬懿が訝しげに彼の視線を追うと、丹塗りの欄干に何か、ひらひらとまとわりついている。
「生きていた」
 曹丕の言葉が解ったのでもないだろうに、赤い柱に伏せていた蝶が、ふらりと空に飛んだ。
 まるで恩人を慕うがごとく、懸命に破れ羽を動かし、曹丕の下へとたどり着こうとしていた。
 それを冷たく見つめながら、曹丕は無言で珮の小刀を抜いた。
 ふわりと風に乗って眼前へ舞い上がった蝶を、投げつけた削刀が柱に磔けた。
 刃が硬い木を噛む音が、いやに鋭く司馬懿の耳を打つ。
「どうした」
 視線に気付いたのか、曹丕が振り返った。口調も眼差しも、苛立ちを隠そうとしない。ただ、それが荒んだ美しさを与えているのも、事実だった。
「少し、哀れですな」
 せっかく助けたものを、と言えば、曹丕は冷たくせせら笑う。
「お前が情趣を覚えるなど、変事の前触れだな」
 そのまま、平然と歩き出した。
 すでに蝶は、破れ羽を風に吹きちぎられ、残骸をさらしている、
 司馬懿もさしたる感慨があったわけではない。
 気まぐれの哀れみで命を助け、気まぐれの苛立ちで命を奪うことは、曹丕の中ではれっきとした一続きの理由があるのだろう。
 その程度は理解できた。
 その程度しか理解できない、ともいえる。
「もし…」
 自分でも、どうしてそんな問いかけをしてみようと思ったのか。
 考えるより先に、言葉が口をついて出た。
「もし、あれが私であれば、やはりそうなさいますか」
 弾かれたように曹丕が振り返った。
 凄まじい目だった。
 殴られるか、あるいは、本当に斬られるだろうか。
 なぜ、こんなばかなことを言ってしまったのだろう。
 司馬懿が息を詰めて待ち構えていると、曹丕の白い指が、彼の襟元を掴んだ。
「俺を見くびるな…!」
 その顔を見たとき、本当に、ばかなことを言ってしまったと思った。
 美しい顔をゆがめて――まるでべそをかいた子供のような表情で、曹丕は不用意な言葉を無言で詰っている。
 そして、必死にこらえているのだ、“そんなことができるものか”と叫びたいのを。
 謝するべきだと思ったが、この張り詰めた静寂を乱すことは憚られた。
 失望と孤独で破裂しそうな、この人を慰めるべきか。それもためらわれた。
 やはり、自分はこの人を何も解っていない――と、思った。
 ただ、やり場のない白い手をとり、抱きとめるくらいしか、してやれることはない。


 ふと、司馬懿の目に、白い蝶の名残が映った。
 あるいは、彼の孤独に近づこうとする者こそ、命を落とすのかもしれない。
 低い体温を抱きとめながら、司馬懿は束の間の考えを振り払う。
 今は、ただ、こうするより他にないのだ。
 腕の中の佳人が――曹丕が、この手を放し、出て行くまでは。




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