自身の府第へ戻る中途、白い蝶を見た。 陽光で真っ白に見えた、それは薄汚れた灰色の羽の蝶。破れかけた羽で秋蘭の花弁にしがみついている。 そのままじっとしているので、死んだかと見れば、かろうじて二度、三度、羽を震わせる。 死にかけた者が思い出したように目を開く光景に似ていた。 見るともなく眺めやる曹丕の視線の先で、蝶はよたよたと羽を動かし、そのはずみで一段下の花群に落ちてしまった。 (ああ、こいつ、死にかけだな) いまだせわしなく花にたかる蝶が、なんとなく曹丕の癇に障った。 死にかけているなら、大人しく花にうずもれていればいいのだ。それを理解せず、あがくように飛び回る様子は、いかにも愚かしく、無様に見えた。 (いつ死ぬんだろう…) 冷え切った内心で、そんなことだけが気になって、ぼんやりと蝶の惑乱を眺めていた。 庭園に臨む回廊に、曹丕がいた。 欄干にもたれ、頬杖をついて、どこか憂鬱な横顔をさらけ出している。 普段の勝ち気な端正さが薄れると、幽艶に陰る美貌が姿を現す。そんな時の曹丕は、実に蠱惑的で、実に陰鬱な顔をしている。 憂愁の美貌が彼の本質であれば、そのとき彼が感じる孤独と暗い哀しみこそ、彼の本性なのかもしれない――司馬懿は、そう思っている。 「長公子」 司馬懿の声に、曹丕は一瞥だけ返すと、すぐに視線は庭先へ向けられた。 「何をご覧に?」 「蝶だ」 目を移すと、なるほど少し離れた秋蘭に蝶がいる。ただ、薄汚れた蝶一匹、彼がなぜ関心を持つのか解らない。 と、どこか冷めた目で、曹丕はこちらを振り返った。 「無様がすぎて哀れでな。いつ死ぬのか、見ていたくなった」 蝶は先程から、花にまとわりつこうとしては均衡を崩し、一段、また一段と、花の群れから滑り落ちている。 手足も弱っているのか、一つの花に長くしがみつくことすらできない。 死にかけているくせに、自覚がないようにせわしなく飛び回っては、自ら墜落していく。 「あれが人であれば、哀れを通り越して、憎しみしか覚えなくなる」 ただ、と曹丕は言う。 「もとより愚かで考えの足りぬ者であれば、致し方ないと、諦めもつくのだろうがな」 吐き捨てるように呟いて、秋蘭の一本を手折った。それで地面に落ちた蝶を掬い上げると、花群の一番上に放してやった。 「飽きた。…行こう、仲達」 今度こそ大人しく花に止まる蝶を、曹丕は見向きもしなかった。 曹丕が室を出たとき、一瞬、秋蘭の香が吹き抜けていった。 「蕭瑟として草木の揺落し、変じ衰えり」 物憂げに呟いた表情が、みるみるうちに険しく変じた。 司馬懿が訝しげに彼の視線を追うと、丹塗りの欄干に何か、ひらひらとまとわりついている。 「生きていた」 曹丕の言葉が解ったのでもないだろうに、赤い柱に伏せていた蝶が、ふらりと空に飛んだ。 まるで恩人を慕うがごとく、懸命に破れ羽を動かし、曹丕の下へとたどり着こうとしていた。 それを冷たく見つめながら、曹丕は無言で珮の小刀を抜いた。 ふわりと風に乗って眼前へ舞い上がった蝶を、投げつけた削刀が柱に磔けた。 刃が硬い木を噛む音が、いやに鋭く司馬懿の耳を打つ。 「どうした」 視線に気付いたのか、曹丕が振り返った。口調も眼差しも、苛立ちを隠そうとしない。ただ、それが荒んだ美しさを与えているのも、事実だった。 「少し、哀れですな」 せっかく助けたものを、と言えば、曹丕は冷たくせせら笑う。 「お前が情趣を覚えるなど、変事の前触れだな」 そのまま、平然と歩き出した。 すでに蝶は、破れ羽を風に吹きちぎられ、残骸をさらしている、 司馬懿もさしたる感慨があったわけではない。 気まぐれの哀れみで命を助け、気まぐれの苛立ちで命を奪うことは、曹丕の中ではれっきとした一続きの理由があるのだろう。 その程度は理解できた。 その程度しか理解できない、ともいえる。 「もし…」 自分でも、どうしてそんな問いかけをしてみようと思ったのか。 考えるより先に、言葉が口をついて出た。 「もし、あれが私であれば、やはりそうなさいますか」 弾かれたように曹丕が振り返った。 凄まじい目だった。 殴られるか、あるいは、本当に斬られるだろうか。 なぜ、こんなばかなことを言ってしまったのだろう。 司馬懿が息を詰めて待ち構えていると、曹丕の白い指が、彼の襟元を掴んだ。 「俺を見くびるな…!」 その顔を見たとき、本当に、ばかなことを言ってしまったと思った。 美しい顔をゆがめて――まるでべそをかいた子供のような表情で、曹丕は不用意な言葉を無言で詰っている。 そして、必死にこらえているのだ、“そんなことができるものか”と叫びたいのを。 謝するべきだと思ったが、この張り詰めた静寂を乱すことは憚られた。 失望と孤独で破裂しそうな、この人を慰めるべきか。それもためらわれた。 やはり、自分はこの人を何も解っていない――と、思った。 ただ、やり場のない白い手をとり、抱きとめるくらいしか、してやれることはない。 ふと、司馬懿の目に、白い蝶の名残が映った。 あるいは、彼の孤独に近づこうとする者こそ、命を落とすのかもしれない。 低い体温を抱きとめながら、司馬懿は束の間の考えを振り払う。 今は、ただ、こうするより他にないのだ。 腕の中の佳人が――曹丕が、この手を放し、出て行くまでは。 |