書架・二

□冷たい嘴
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一つ小さなことがあって、諍いにもつれ込む。
多分、もう、これは治しようがない二人の関係なのだと思う。
「どういうことだ」
「何がです」
どうも、寝込んでいた本人に無断で、あらゆる決済を“全て”終わらせたことが問題らしい。
玉璽というのは権力の前には軽いのだと、捺した司馬昭だけは妙に納得していた。
恐らく、この病的に鋭い若い皇帝も理解はしているに違いないが、矜持が許さないのだ。
「これだけは許さない、お前であろうと、絶対にだ。これだけは許さない」
「…許さないも何も、昨夜から酷く吐いて苦しんでいた、あなたの代わりを務めただけですよ」
少し恥を突きつけてやると、この青年は己の全てを恥じるかのように黙ってしまう。それは、ずっと昔から理解している。
「飲みすぎましたか」
まだ牀上から起き上がれない曹髦が、恥じ入るように首を振る。それだけで妙な色香がある。
情事の後で酒を飲むようになったのもかなり前からで、どちらが始めたのかも忘れた。これは新しい習慣で、しかも最初から投げやりだ。
「あまり過ごさないことですね。さもないと、今日のようなことになりますよ」

とは言うものの、本当は曹髦のせいではないことを、司馬昭自身がよく知っている。
正確には――曹髦へは絶対に秘密だが――新しく試した媚薬の何かしらが、この繊細にして過敏な青年に合わなかったらしい。あの闇医者は、賈充に特に処理させるべきだろう。

「それが貴様のしたことへの申し開きか」
曹髦は許してはいなかった。司馬昭は眉を上げて、彼を見た。
「貴様の全てが許されていると思うな…!」
「ああ…」
前にもこんなやりとりをした覚えがある、と思い当たった。あまり重要でない記憶が、曹髦と関わる場合だといくらか明確に覚えているのが、少し興味深く、少し不愉快だった。
「許す許さないの問題ですか」
あなたはいつも同じことを蒸し返すんですね、と言いたくなった。
「まるで御自分の権力を確認したがっているようですよ」
ありもしない存在だが、少しでもそれに近いものはないかと探し回るような、滑稽さと哀れさだけが残る探し物だ。だから、この聡明で美しい青年には、できるだけやめてもらいたい行動なのだが。
「玉璽を捺すことが、あなたの欲しがっているものを保証するとは思えないのですがね」
こめかみに強い衝撃を感じたのは、その直後だった。
「痛っ…!」
床に金属の衝突する音が響いた。
くらみかける目で音を追いかけた先に、金の簪が輝いていた。龍を象った飾りに赤黒い染みが見えた。
「そうまでして、私を辱めたいか……」
呆然と金簪を見つめる司馬昭の背に、振り絞るような曹髦の声が刺さった。
我に返って見つめなおした曹髦の表情は、今まで見たことがないほど、暗く、怒りに満ちて、なお悲しげだった。その激しい怒りが、堅く引き結ばれていた唇を突き破った。
「全ての権柄を執って、まだ飽き足りないなら、それをくれてやる!天子の簪だ、それなら貴様も満足だろう!」
鋭い声がしたたかに室内を打ち据える。司馬昭は思わず外の気配をうかがった。こんなに激昂した大声を聞いたのは初めてだった。
「陛下、私の非礼です、お詫びいたしますが、どうかお声を――」
「貴様には一言も指図されたくない!もう、貴様と話すことなどない、出て行け!」
心臓が痺れるほど痛いのは、緊張なのか、あるいは忿りか、衝撃だろうか。
簪を失って崩れた髪を掬い上げてやりたいと思って、司馬昭はかろうじて思いとどまった。張り詰めた沈黙が、天子へ触れることを許さなかった。
「…承知いたしました」
ただ、簪だけは、その手に握らせた。白く冷たい、少年のような指に。
曹髦は逆らわなかった。ただ、一度も目を合わせようとはしなかった。
司馬昭は、去り際に、
「それはあなたが挿していなさい。あなたのものなのだから」
とだけ言っておいた。





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