季節はずれの蝶が飛んでいた。 多分、白い蝶だったのだろう。薄汚れた灰色の羽が病葉のように途切れて、飛ぶというより、地に近い雑花を這うように、やっと羽ばたいている。 死が近いのは明らかだった。 それを、曹叡は先ほどから、足を止めて見入っている。 何を言うでもなく、表情を変えるでもなく、ただ、弱りきった蝶を見つめていた。 その時、蝶が不意に舞い上がった。 僅かな命の羽ばたきが眼前の白い槿花に止まったとき。 曹叡は、その羽を粉々に握り潰してしまった。 司馬師は、自分の見た光景が信じられなかった。 驚いた蝶が羽ばたくと、羽は一瞬でちぎれ、残骸が落下していく。 銀と珍珠に飾られた指が、残る薄汚れた羽をつかみ潰した。 灰のような銀色に汚れた指先を、曹叡はやはり、無表情に見つめていた。 卓上の杯をひっくり返し、無造作に指を洗い流す様子を見て、初めて、司馬師は我に返った。 「元仲様…」 思わず、濡れたままの主の手を取った。 指先は宝玉のように白い。この美しい指が、あれほど無表情に、残酷に振舞う。 なぜ、こんなことをしたのか。 問い質したかったが、表情のない、それゆえに際立つ天与の美貌が、司馬師を魅入って許さない。 口を開いたのは、曹叡が先だった。 「見苦しかった」 玖玉のような瞳で真っ直ぐ見つめながら、そう言った。 「見苦しい…?」 「死に臨みながら、未だ死に切れず、さまよう姿だ」 死を引きずり、よろめきながら彷徨する不吉さが、どうしようもなくおぞましく、苛立つのだ――と。 「だから、殺した」 当然だというように、美しい唇が言い放つ。それでいて、玉を雕んだごとき麗貌は、どこまでも無機質だった。 まるで、その信じがたい麗質が、正しく人ならぬ存在に還り、人としての情愛を失ったかのごとく。 不均衡の美しさが、司馬師の胸をざわめかせた。 禍々しい冷たさへの不快感、感情のない残酷さへの畏怖、そして、いずこの神祇が定めたともしれない、狂気の巣食う絶世の美人への愛執。 そのいびつな美しさを見ていたいという欲望があるのは事実だ。 「死に臨んで、未だ死に切れず、生にあがくのは、我らの性というものでございましょう」 だが、司馬師は、優しく自分の腕へ引き戻すことを選んだ。 「お心を向けて殺すのであれば、わたくしをこそ、お手にかけて下さいますよう」 優しく、いとおしげに覗きこむ眼差しを羞じるように、曹叡は目を伏せた。 その小さなおとがいへ静かに触れ、こちらへ向き直らせる。 柔らかく、吸い付くような口づけが与えられた後、同じ唇が、告げた。 「すまなかった」 いつものように、深く、暗く潤い、同じだけ深く輝く瞳が、司馬師を見つめ返している。 「いいえ、わたくしの元仲様…」 おかえりなさいませ、とは、心の中だけで告げておいた。 ――この方は、何より死を恐れておられる。 死、というより、自分の死が国や玉座を揺るがすことを、恐れる。 そして、それを望む者を誰より愛していること、愛する自分に、苛立っている。 だから、殺すのだ。 そう気付いて、司馬師はいっそう、この美しい君を愛さずにはいられなくなった。 |