書架・二

□蝶三態〜曹髦〜
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 見るともなく庭を眺めていると、目の前を何かが舞い散っていく。
 花かと思った、それは薄汚れた白い蝶だった。
 磨かれた砌上に落ちた蝶は、ぼろぼろに破れた羽を引きずって、まだ羽ばたこうとしている。
 きざはしに三々五々、蟻が集まりつつあった。蝶が力尽き地に落ちたとき、一斉に襲いかかるのだろう。
 無性にこの蝶を逃がしてやりたくなった。
 痛んだ羽を傷つけぬよう、そっと手に籠めようとするが、蝶は大きな手の影に怯えるのか、せわしなく羽ばたいて、飛び込むことをしない。
「陛下?」
 夢中になっている曹髦の背に、穏やかな声がかけられた。
 振り返ると、心配と安堵がない交ぜになった表情で、羊祜が一礼する。
「ああ、叔子、よいところへ来てくれた」
 促されるまま、羊祜は皇帝の隣へ座る。そういう気遣いのできる男だ。
「いかがなさいました?」
「蝶を逃がしてやりたくてな」
「…蝶?」
「そう。もうすぐ死ぬのだろうが、みすみす見殺しにはしたくない」
 なるほど、曹髦の苦戦する先には、薄汚れた羽を必死に動かす蝶がいる。
 ほんの一寸、地に浮かんで逃れようとする瀕死の蝶。
 助けようとしても、救いの手をも逃れんとして、危地に落ちる蝶。
 羊祜が思わず傍らを見ると、まともに目が合ってしまった。
「叔子、助けてくれないか」
 それが蝶のことを指しているのだと、数瞬の後で理解した。
「無理に捕らえようとすると、羽を傷つけそうなんだ」
「確かに…」
 難しそうだ、といいかけて、ふと、思いついた。
 佩玉の飾り布をほどいて広げると、蝶の下へ滑り込ませた。
 そのまま素早く四方を包んでしまうと、蝶は絹の中で大人しくなった。
「さあ、どこへ放してやりましょう」
 いたずらっぽい笑顔で尋ねる羊祜に、ようやく曹髦も愁眉を開いてくれた。
「なかなか思いつかないな」
 花の絶えない内院も考えたが、地面に落ちてしまえば先程と同じことになるだろう。
 かといって、短い命を籠で飼うのも、哀れに思えた。
「水辺もよいかと思ったが、鳥が襲いそうだ」
 絹に包まれた蝶は、少し力を取り戻したのか、先程よりは落ち着いて飛び回っている。
 その様子を覗き込みながら、曹髦は溜息をついた。
「どこに行っても、周囲が敵ばかりというのは、辛いな」
 再び、羊祜の胸が痛んだ。
 曹髦は明らかに、この蝶に自分自身を投影している。
 飛び立とうともがく蝶を、高みへ上らせまいと無数の虫や鳥が取り囲む。そして、蝶が力尽きるのを待っている。
「いっそ、陛下のお部屋に放してやってはいかがですか」
 曹髦の視線へ応えるように、羊祜はいつものように、優しく、どこか寂しげな微笑を浮かべている。
「たくさんの花を飾り、水を活けて、放してやるのです。そうすれば、何に襲われることもなく、花の中で一生を終えられましょう」
 はい、と小さな包みを曹髦へ手渡す。再び、蝶があわただしく動く気配がした。
「叔子は優しいな」
静かに笑うと、曹髦は大事そうに絹を抱えた。
「そなたの言うとおりにしよう。借りていくぞ」
 殿中へ入っていく姿勢のよい後姿を見送りながら、羊祜は、手伝うと言えなかったことに気付く。
 曹髦はひとりになりたがっているのだと、何となく解ってしまったのだ。


「私なら籠で飼ってやるがな」
 暗い、刺々しい声に、羊祜は驚いて振り返った。いつの間に来ていたのか。どこか不機嫌そうに、司馬昭が立っていた。
「襲わせたくなければ、目の行き届く中へ籠めておけばいい。所詮、旦夕の命だろう。目をかけたところで仕方があるまい」
「閣下」
 羊祜は、どうしようもなく腹立たしくなった。
 司馬昭の言葉に込められた不吉な暗喩を、彼は理解したのだ。
「陛下を追い詰め参らせるようなお振る舞いは、慎まれませ」
 珍しく口調を荒げる羊祜に、司馬昭は不愉快そうに鼻を鳴らした。
「あまり陛下に期待させるな。確かに、あなたは優しい。誰に対しても、誠実で、優しいからな」
 自然と司馬昭の口調は冷ややかで、嘲るような響きを帯びる。
 誰に対しても誠実で、心優しい――だからこそ、親族である司馬一族にも背けない。
 そんなことは、羊祜自身が痛いほど、泣きたいほどよく理解している。
「陛下は、そのようなこと、誰よりもご存知です。私では陛下をお守りできないことも…」
 言葉が詰まったのは、憤りのゆえか。
 羊祜は、それ以上を言わず、司馬昭の隣をすり抜けていった。
 
 籠に入れられた蝶でも、あれほど楽しそうに、嬉しそうに笑うことができる。
 それを自分が与えられないのは、自身が籠に閉じ込めたからだ。
 理解してはいる。
 ただ、あの二人の楽しげな笑声が、耳障りだった。





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