見るともなく庭を眺めていると、目の前を何かが舞い散っていく。 花かと思った、それは薄汚れた白い蝶だった。 磨かれた砌上に落ちた蝶は、ぼろぼろに破れた羽を引きずって、まだ羽ばたこうとしている。 きざはしに三々五々、蟻が集まりつつあった。蝶が力尽き地に落ちたとき、一斉に襲いかかるのだろう。 無性にこの蝶を逃がしてやりたくなった。 痛んだ羽を傷つけぬよう、そっと手に籠めようとするが、蝶は大きな手の影に怯えるのか、せわしなく羽ばたいて、飛び込むことをしない。 「陛下?」 夢中になっている曹髦の背に、穏やかな声がかけられた。 振り返ると、心配と安堵がない交ぜになった表情で、羊祜が一礼する。 「ああ、叔子、よいところへ来てくれた」 促されるまま、羊祜は皇帝の隣へ座る。そういう気遣いのできる男だ。 「いかがなさいました?」 「蝶を逃がしてやりたくてな」 「…蝶?」 「そう。もうすぐ死ぬのだろうが、みすみす見殺しにはしたくない」 なるほど、曹髦の苦戦する先には、薄汚れた羽を必死に動かす蝶がいる。 ほんの一寸、地に浮かんで逃れようとする瀕死の蝶。 助けようとしても、救いの手をも逃れんとして、危地に落ちる蝶。 羊祜が思わず傍らを見ると、まともに目が合ってしまった。 「叔子、助けてくれないか」 それが蝶のことを指しているのだと、数瞬の後で理解した。 「無理に捕らえようとすると、羽を傷つけそうなんだ」 「確かに…」 難しそうだ、といいかけて、ふと、思いついた。 佩玉の飾り布をほどいて広げると、蝶の下へ滑り込ませた。 そのまま素早く四方を包んでしまうと、蝶は絹の中で大人しくなった。 「さあ、どこへ放してやりましょう」 いたずらっぽい笑顔で尋ねる羊祜に、ようやく曹髦も愁眉を開いてくれた。 「なかなか思いつかないな」 花の絶えない内院も考えたが、地面に落ちてしまえば先程と同じことになるだろう。 かといって、短い命を籠で飼うのも、哀れに思えた。 「水辺もよいかと思ったが、鳥が襲いそうだ」 絹に包まれた蝶は、少し力を取り戻したのか、先程よりは落ち着いて飛び回っている。 その様子を覗き込みながら、曹髦は溜息をついた。 「どこに行っても、周囲が敵ばかりというのは、辛いな」 再び、羊祜の胸が痛んだ。 曹髦は明らかに、この蝶に自分自身を投影している。 飛び立とうともがく蝶を、高みへ上らせまいと無数の虫や鳥が取り囲む。そして、蝶が力尽きるのを待っている。 「いっそ、陛下のお部屋に放してやってはいかがですか」 曹髦の視線へ応えるように、羊祜はいつものように、優しく、どこか寂しげな微笑を浮かべている。 「たくさんの花を飾り、水を活けて、放してやるのです。そうすれば、何に襲われることもなく、花の中で一生を終えられましょう」 はい、と小さな包みを曹髦へ手渡す。再び、蝶があわただしく動く気配がした。 「叔子は優しいな」 静かに笑うと、曹髦は大事そうに絹を抱えた。 「そなたの言うとおりにしよう。借りていくぞ」 殿中へ入っていく姿勢のよい後姿を見送りながら、羊祜は、手伝うと言えなかったことに気付く。 曹髦はひとりになりたがっているのだと、何となく解ってしまったのだ。 「私なら籠で飼ってやるがな」 暗い、刺々しい声に、羊祜は驚いて振り返った。いつの間に来ていたのか。どこか不機嫌そうに、司馬昭が立っていた。 「襲わせたくなければ、目の行き届く中へ籠めておけばいい。所詮、旦夕の命だろう。目をかけたところで仕方があるまい」 「閣下」 羊祜は、どうしようもなく腹立たしくなった。 司馬昭の言葉に込められた不吉な暗喩を、彼は理解したのだ。 「陛下を追い詰め参らせるようなお振る舞いは、慎まれませ」 珍しく口調を荒げる羊祜に、司馬昭は不愉快そうに鼻を鳴らした。 「あまり陛下に期待させるな。確かに、あなたは優しい。誰に対しても、誠実で、優しいからな」 自然と司馬昭の口調は冷ややかで、嘲るような響きを帯びる。 誰に対しても誠実で、心優しい――だからこそ、親族である司馬一族にも背けない。 そんなことは、羊祜自身が痛いほど、泣きたいほどよく理解している。 「陛下は、そのようなこと、誰よりもご存知です。私では陛下をお守りできないことも…」 言葉が詰まったのは、憤りのゆえか。 羊祜は、それ以上を言わず、司馬昭の隣をすり抜けていった。 籠に入れられた蝶でも、あれほど楽しそうに、嬉しそうに笑うことができる。 それを自分が与えられないのは、自身が籠に閉じ込めたからだ。 理解してはいる。 ただ、あの二人の楽しげな笑声が、耳障りだった。 |