書架・二

□生霊・刻命
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「嬉しゅうございます、我が君」
 陰惨な喜びに満ちた笑声に、司馬昭は我に返った。青白い両手が両肩に絡みつき、鎖のごとく彼を束縛する。
「あなた様も私を愛してくださっているのですね…」
 背筋に鋭い針を刺し通されるような嫌悪感。
 その手を拒みたくとも、どうして振りほどけばいいのかすらわからない。
 もう、自分はこの男と同じ場所に墜ちてしまったのだから。
「だから、僕射を殺してまで、わたくしを護って下さったのですね…」
 ああ、と、感極まったように血塗られた唇が囁く
「我が君…何と愛おしい御方…」
 違う、と叫びたかった。乾ききった喉が破れるほど叫び、この男を拒絶してしまいたい。
 それでも、視界に映る白い棺が、そんな愛着を許さない。
(これが、罰なのだ――)
 その時、短い衣擦れの音がした。喪服の襟がはだけ、青白い指が隙間へ這い寄る。止める間もなかった。
 視界が不気味な微笑で覆われ、蛇を思わせる生温い舌が司馬昭の唇に押し入ってきた。有無を言わせぬ力で床に引き倒される。
 ようやく恐怖が襲ってきた。賈充は青白い痩躯と裏腹に、恐ろしく力が強い。こんな体勢で押し倒されては、もう逃げられない。
「貴様…、まさか、ここで…!?」
「ええ、勿論…」
 にぃっと嗤う唇は、まさしく獲物を呑み込む蛇だった。
 ただし、その陰惨な視線は、勝ち誇ったように棺を見据えている。
「あの竪子に見せ付けてやりましょう…」
 告げられた司馬昭の絶望的な表情を、賈充はやはり理解できなかった。
「い、っ……嫌だ、それだけは…!」
 司馬昭は、ほとんど半狂乱だった。曹髦の眼前、それも、棺の前で。
「嫌だ、頼む…!公閭、お願いだ!」
「え…?」
「陛下の、前だけは――!」
 一瞬、賈充の動きが止まった。
「何を戯言を仰っているのですか、子上様…」
 強烈な感情のまま、手が鉤爪のように肩口へ食い込む。
「死人に何ができる……」
 崩れた髪の下で、愛しい主が何か苦痛を訴えているが、もう手加減ができない。
「あの憎憎しい目を抉り取って、あなたへ捧げることもできたのに……あなたは許してさえくださいませんでしたね…」
 許しを求めるまでもなく、黄色い嘴を切り裂いて愚かな思い上がりを挫けばよかった。
 そうすれば、これほど主の心は乱れず、心静かに賈充の意図を愛でてくれたに違いないのに。
 喪服を引きちぎる腕を剥がそうと、力任せに爪を立てる、凄惨な形相の主と視線が合った。
「なぜです、子上様…」
 かきむしられる痛みなど、どうでもいい。ただ、司馬昭の向ける感情が憎悪と激しい怒りだけというのが、悲しい。
「なぜ、わたくしを拒もうとなさるのですか……全てはあなた様の御為ですのに…」
 その端整な――今は“いささか”怒りに歪んではいるが――顔を、賈充は限りない愛おしさで撫で宥める。
「…わたくしがこんなにもあなたを思って差し上げているというのに、なぜ、あの子に執着なさいますか…」
 その純然たる愛情と狂気に満ちた言葉を、司馬昭が容れられるはずもなかった。
「私は貴様の情けなど要らない、知ったことか!私が欲しかったのは彦士様の心だけだ、それも今となっては証する術さえないのに!」
 悲鳴のように叫んで後、司馬昭は一言も口をきかなかった。
 ただ、責め苛むような快楽に耐えきれず苦鳴が漏れるたび、優しく毒々しい囁きと笑い声が彼の耳に注がれ続けた。
「…ああ…愛しい我が君…なんと憎らしい……」
 棺にすがりつく主の指を払いのけると、血肉がこびりついたままの爪や指先を愛しくたまらないというように、賈充は口づけ、そして笑う。
「…愛しています、ただ、わたくしだけが…」






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