「叡さま」 「なに?」 「師はね、叡さまのことが好き」 司馬師の目は真剣そのもの。 曹叡は目をぱちくりとさせている。 「叡さまのことが好きなの、大好き!」 すると、曹叡は優しく笑って、司馬師の手を大切に包み込んだ。 「ありがとう」 そうやって微笑む表情が、本当にきれいで、優しくて。 「叡さま」 司馬師は、そっと顔を近づけた。 はなびらのような唇が、ちょん、と触れた。 桃の花のような、紅くて小さな唇に。 今度こそ、曹叡は目をぱちくりとさせた。 「師ぃちゃん?」 何が起きたのかわからない、という様子だった。 (それから、どうしたのだったか……) 幼い頃の、それもいささかませた記憶を、詳しく思い出すのは恥ずかしい。 ただ、うららかな日の光を浴びて、舞い散る桃花に包まれた、あの人の愛くるしさは、今でもはっきりと目にとどまっている。 ぱしゃん――水の音が、司馬師の思考を引き戻す。 早朝、まだ肌寒い刻、紫檀の屏風の向こうからは、香しい馨りとともに緩やかな水の音が聞こえてくる。 卓上に並べられた結髪の道具は、よく磨かれている。 白銅の盥へ水を満たし、櫛を拭き、簪や宝石をあつらえる。 本来ならば女官のそのまた侍女が行う務めは、ただ一人の貴人によって調えられていた。 特別な時にのみ、許される神聖な行為。 司馬師は、静かに主君の支度を待つ。 「子元」 待ち望んでいた声がかけられる。 「はい」 布を捧げ持ち、視線を伏せながら屏風の向こうへ回る。 高貴な体を優しく包み、抱きとめる。 ふと、香草が馨った。沐浴の薬湯の匂いだ。 腕の中へ閉じ込めた玉体そのものが、高貴な芳馨(かおりぐさ)のようだった。 「元仲様」 「どうした?」 小さな唇へ、触れるだけの口づけが落ちる。 「元仲様…愛しておりますよ…」 あなたを愛しております、とてもとても、心の底から――。 2011.3.3 |