書架・二

□花細
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「叡さま」
「なに?」
「師はね、叡さまのことが好き」
司馬師の目は真剣そのもの。
曹叡は目をぱちくりとさせている。
「叡さまのことが好きなの、大好き!」
すると、曹叡は優しく笑って、司馬師の手を大切に包み込んだ。
「ありがとう」
そうやって微笑む表情が、本当にきれいで、優しくて。
「叡さま」
司馬師は、そっと顔を近づけた。

はなびらのような唇が、ちょん、と触れた。
桃の花のような、紅くて小さな唇に。

今度こそ、曹叡は目をぱちくりとさせた。
「師ぃちゃん?」
何が起きたのかわからない、という様子だった。







(それから、どうしたのだったか……)

幼い頃の、それもいささかませた記憶を、詳しく思い出すのは恥ずかしい。
ただ、うららかな日の光を浴びて、舞い散る桃花に包まれた、あの人の愛くるしさは、今でもはっきりと目にとどまっている。

ぱしゃん――水の音が、司馬師の思考を引き戻す。

早朝、まだ肌寒い刻、紫檀の屏風の向こうからは、香しい馨りとともに緩やかな水の音が聞こえてくる。

卓上に並べられた結髪の道具は、よく磨かれている。
白銅の盥へ水を満たし、櫛を拭き、簪や宝石をあつらえる。
本来ならば女官のそのまた侍女が行う務めは、ただ一人の貴人によって調えられていた。
特別な時にのみ、許される神聖な行為。
司馬師は、静かに主君の支度を待つ。

「子元」

待ち望んでいた声がかけられる。
「はい」
布を捧げ持ち、視線を伏せながら屏風の向こうへ回る。
高貴な体を優しく包み、抱きとめる。
ふと、香草が馨った。沐浴の薬湯の匂いだ。
腕の中へ閉じ込めた玉体そのものが、高貴な芳馨(かおりぐさ)のようだった。

「元仲様」
「どうした?」

小さな唇へ、触れるだけの口づけが落ちる。

「元仲様…愛しておりますよ…」

あなたを愛しております、とてもとても、心の底から――。








2011.3.3


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