写本

□天巫
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「逃す、と言ったな」
「はい」
「何が起きた」
「新しい殿が、故公の側室たちを……その……殺害するよう、命じられたんです。閣下のお名前は勿論、その中に入っていませんが、腹心たちは血眼になって手がかりをつかもうとしています。じきに発覚してしまうでしょう、そうなっては遅いんです」
「本初が死んで、初めての命令が夫人殺しか。袁顕思は父親ほどではないが器量があると聞いたに、それでは先が思いやられるな」
「……跡を継いだのは、顕思殿じゃありません」
「袁顕甫か……」
 苦々しげに呟き、首を振る。
「血迷ったな本初…。だから早う意思を決めろと言うたのに…」
 田豫は目を見開いた。公孫瓚の口ぶりは、まるで最初から事情を知っていたかのようだ。
「…袁公は、閣下にどれぐらいのことをお教えになったのですか」
「何も。ただ、最後に逢ったとき、尋ねられた。守勢の器量と攻勢の器量、同じ器であればどちらが良いか、と」
「閣下は、何と…?」
「内が治まっているのであれば、お前の好きなほうを選べ。不和であるならば長じた者を選べ」
「……そう、だったのか…」
「ある意味、あいつらしい…。多くの人間に同じ問いをして、なお決められなかったのじゃ。致し方あるまい…」
 穏やかな諦観に満ちた言葉は、どこか寂しげで、とても仇敵に向けたとは思えない。
 生死に淡々としているのは昔からであったが、今の公孫讃は、内省的な静けさをまとっている。
「袁公が――」
 いささかためらったが、どうしても告げたかった。
「袁公が閣下を頼られていた理由、解った気がします」
 公孫瓚は何も答えない。
 静かに笑うだけだった。ただ、それこそが何よりも深く真実を湛えていた。

「国譲」
「はい」
「そなた、これからどうする」
「…曹公のもとへ行こうかと、思ってるんですが……」
「それはよい。ああいう男は、そなたの才に合うだろう」
 俺では使いこなせなかった、俺のもとに置くべきでない才が、そなたにはある――そう言われて、田豫はほんとうに何も言えず、まじまじと美しい微笑みを見た。
「おいら……」
「言わずともよい。生きて、幸運を」
 微笑む公孫瓚の向こうに、迎えの使者が見えた。
 この乱世、一度別れたなら再び見えることは難しいだろう。それでも、彼は彼の道を生き、己は己の道を選ぶ。
「閣下、お元気で」
「そなたも、健やかにあられよ」
 馬上で笑う人は、紛れもなく、田豫の知る白馬長史であった。
「そなたの大成をお祈りする。お別れじゃ、国譲」
 今度こそ、田豫は言葉もなかった。深々と拝礼して送る彼の耳に、去り行く蹄の音がいつまでも響いた。
「さよなら、伯珪さま」
 熱い涙が一筋、地面に落ちた。
 田豫は頬を拭い、月を仰ぐ。

「さあ、おいらも行かなくちゃ」






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