亡き君主が、今わの際まで執着していた愛妾がいる。 “お前にしか託せんのだ…。頼む…あれを、助けてやってくれ……” たかだか妃妾のひとり、いかに寵愛が過ぎたからといって、なぜここまで溺れるのか。 正直、田豫には理解しがたかった。彼もさすがに衰えたか、というのが、率直な思いだった。 そうでなくとも、晩年の彼は、綻びつつある勢力の維持と、そんな危機を差し置いて深まる家督をめぐる内訌とで、疲弊しきっていた。 統治に不穏な影が色濃くなるのに比例して、袁紹は急速に愛妾へ溺れていった。 その存在は知っていた。 北方に名を馳せた、田豫のかつての“主君”その人の城砦から奪ったのだという。 だが、不思議なことに、誰もその姿を見た者はいない。館のどこにいるかも定かではない。 一度、田豫はひそかに、その人を訪ねようとしたことがある。滅びた先の主君のことを尋ねたかった。 いかに袁氏の陣営の者が悪し様に嗤おうと、田豫には、あの悲しい将軍のその後を聞きたいという気持ちを抑えられなかった。 しかし、田豫の必死の思いを打ち明けられた沮授は、静かに首を振ると、こう言った。 “お会いにならないほうがいいですよ。あの方は、きっとお辛いでしょうから” あのときの沮授の悲しげな言葉、そして、袁紹の遺言の意味を、田豫は思い知った。 「随分と遅かったな」 その人は笑った。 誇り高い笑顔。昔となんら変わらない。 「まさか、あなたを匿っておられたなんて…」 絶句した後、ようやくそれだけを呟いた田豫に、公孫瓚は微苦笑した。 「何だ、誰も俺のことを知らなかったのか。本初も律儀な奴じゃ。…まあ、いい。それで、俺は自裁すればよいのか?それとも、お前が殺すのか?」 「あなたを助けにきました、…閣下」 かつてのまま、敬意が口をついて出た。 「ふふ…そのような呼び方、久々に聞いたな」 「すみません、つい…」 「いや、すまん」 国譲、と懐かしい声が字を呼んだ。 「逃すのであれば、俺ではなく、続を。まだ若い、情けをかけてやってはくれんか」 「ご子息なら、すでに先君の遺命によって、劉使君へお預けしてあります」 「…用意のよいことじゃ。であれば、好意にすがろう。よろしく頼む」 差し出された手を、田豫は迷いなく執った。 |