写本

□夜月
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 胸に響く疼痛に喘いで目を覚ますと、ふわりと柔らかな感触。ぼんやり視線を彷徨わせる公孫瓚の目に、赤くはぜる火が映る。自分の状況を把握しなければと、目を動かしたとき、
「大人しくしていろ」
 のんびりとした声が聞こえた。
 あの男だ。
「貴様…!」
 身を起こすと、視界に短刀が映った。柄をつかみ、その勢いに乗せて突きかかる。
 次の瞬間、男は身を沈め、公孫瓚の足を払った。
「っ!」
 受身を取ったものの、右肩を強打した。骨に響くような痛みに顔を歪めたところへ、ぬっと大きな影が覆いかぶさる。
「大人しくしろと言っているだろう。あまり煩わすと……」
 男は唇を歪めると、取り上げた刀子を逆手に握る。固く拘束する左手に、更に力が込められたとき、公孫瓚は本能的に男の意図を感じた。
「放せ!」
 男の右手が勢いよく動き、公孫瓚は反射的に男の目――青白く輝く目だけを見つめた。
 刺し殺される。そう覚悟したとき、しかし、予想していた痛みも冷たさも衝撃もなく、ただ乾いた音が耳朶を打つ。
 張り詰めていた呼吸を戻すと、目を開けた。頭上で、男が微笑している。が、先ほどの残虐さはなく、どこかいたずらっぽい、子どもじみてさえいるような笑顔だった。
 男が笑ったまま顎をしゃくる。その方向を見ると、やや離れた木の幹に刀子が突き立っていた。
 呆然と自分を見つめる公孫瓚に、男は人の悪い笑みを見せた。
「なかなか、いい突きだったぞ。慣れているな」
 誉められているのだろうが、嬉しくはない。何と答えてよいかわからず、公孫瓚はふいと視線をそらした。その反応に苦笑しつつ、公孫瓚の白く尖った顎を掴み、自分のほうを向かせた。
「誰が教えた?」
 男の扱いに、公孫瓚は目元を朱に染めて睨みつけたが、短く、答えた。
「我流じゃ」
 ほう、と、男は感嘆したような声を上げる。
「自身で、な。見かけによらず、やるじゃないか」
 そう言うと、ようやく公孫瓚の両手を解放し、体を離した。
 痛みに軽く眉をしかめ、公孫瓚は腕を下ろす。手首には真っ赤な跡が残り、青白い肌だけに痛々しかった。
 そこで初めて男の顔がはっきりと見えた。
 青白い、雪空や月を思わせる瞳が、焚き火に赫くきらめいていた。その瞳の持つ、強い何かに吸い込まれそうになる。
 魅入られたように佇む公孫瓚を見つめながら、男は立ち上がった。
 ふと、ゆるい風が吹く。
 髪も肌も濡れたままで、しかも先ほどからの抵抗で汗ばみ、公孫瓚は思わず身を震わせた。
 そこで改めて、自分が何もまとわず、裸をさらしていることに気付く。自分の状態を再確認すると、急激に羞恥が沸き起こった。痛む体を無理やり起こし、男の目から肌を隠そうとする。
 その様子を見て、男は笑った。まるで、親しい縁者と話すような、朗らかな声で。
「今更恥ずかしがるな。散々、見せただろう」
 その言葉に、公孫瓚の顔が真っ赤になった。男に背を向けた。
 肌が明るいのは、焚火が照り映えているだけではなかろう。震えを止めたくとも、しんと下がる夜気がそれを許さない。
 流れるような銀髪が、体を半ば覆い隠している。濡れ髪に白い肌が映える光景は、見ているだけで心地よい。
 何より、均整の取れたその体。服を着ているときはあまり判らないが、彼が武芸をたしなむことを物語っていた。
 だが、それでいながら、どこか妖艶な印象すら受けるのは、この美しい男の生得のものなのか。
「何を見ている……」
 肌に触れる視線が疎ましいのか、公孫瓚は苦しそうに呟く。
「惨めだと、嗤うか」
 声は低く、か細いが、唇を食いちぎるような気迫がある。
 屈辱だろう。得体の知れぬ男に威圧され、裸のままなすすべもない。
 知らず知らず、男の唇は満足そうな笑みを溜めていた。
「美しいな……」
「何?」
 公孫瓚は目だけを動かし、こちらを見た。その瞳は、すでに強い光を取り戻しつつある。
男は軽く首を振る。
「いや、寒かろうと思ってな」
 そういうと、傍らの箱から何枚か布を引っ張り出し、公孫瓚へ放り投げた。
「その髪、きちんと拭え。風邪をひくぞ」
 言われずとも、と、公孫瓚は布を取る。そもそも、こいつのせいでこんな思いをしているのだ。このまま寒さを耐えるより、早く体を温めたいという本能的な欲求の方が強い。思い切って立ち上がると、丹念に肌を拭い始めた。
 乾いた布の感触が心地よい。水を吸ってしっとりと重い髪も、柔らかく包んで水気を取る。
 あらかた拭き終わると、顔にかかっていた乱れ髪を払った。丁寧に拭いたつもりだが、長さが長さだけに、ところどころ縺れている。
 しばらく逡巡していたが、思い切って問うて見る。
「櫛は、ないか」
 何気なく顔を向けると、男はあちらを向いて杯を傾けていた。彼なりに気を遣っていたらしい。
「櫛か。ああ、その髪は難儀だな」
 そう言って、また荷物の山をごそごそとかき分ける。
「そら」
 ひょいと投げられ、慌てて受け止める。見れば、象牙に玳瑁を嵌めた高価な櫛だ。こんな宝物を、気軽に放り投げてよこす心がわからない。
 落としたらどうするつもりだったのだろう。
少しずつ毛筋を梳きながら、公孫瓚は考えていた。
「この程度なら、反応できると思っていた」
 自分の心を読んだような声に、公孫瓚はぎょっとして男を見た。
「武術を心得ていれば、それぐらい、なんでもなかろう」
 男は、そう言って笑う。
 何と言うか、公孫瓚の理解できる範疇を超えている。

 そのまま無言で、公孫瓚は髪を梳き続けた。新しい滴が、梳られた先からとめどなく零れ落ちる。
 規則的な作業は、人を無心にさせる。薪のはぜる音だけを聞きながら、白い櫛が皎い髪を滑っていく。
 きちんと梳き終わると、布で髪を包み、溢れる滴を絞り取った。あとは自然に乾かすしかなかろう。
 見れば、男は再びあちらを向いている。公孫瓚の唇が、はじめてあえかな笑みを浮かべた。
「終わった」
 その声に、男は首をめぐらす。
 きちんと梳かれた髪が炎を映し、肩にはおられた布は象牙の櫛を持つ手が留める。
 一幅の絵であった。
 先ほどよりも、公孫瓚の表情は柔らかいように思える。赤い炎に照らされた唇は、心なしか笑んでいる気がした。
「どうした?」
 沈黙したままの男を訝しみ、公孫瓚は声をかけた。その声に、男は我に返って苦笑する。
「いや……。着替えをやろう」
 例のごとく、脇の荷物から何かを引っ張り出す。
 素の衣と、黄い絹の表着、紫練の帯。ふわりと柔らかな手触りが心地よい。
 櫛といい衣類といい、この男の持ち物はいかにも放浪する者に不釣合いだった。
「お前、何者だ?」
 絹と男を交互に見つめた公孫瓚は、心なしか硬い声で尋ねた。
 盗品の類であれば、身につける気はなかった。そんな心中を見抜いたのだろう。男は低く笑った。
「案じるな、交易品を買い取ったまでだ」
 早く着ろ、と促され、半信半疑ながらも服を広げる。
 と、公孫瓚はくるりと背を向け、はおっていた布を取る。白い腕や腰の線が、闇夜と炎のはざまに皓く浮かび上がった。
 さすがの男も、こんな光景は予想していなかった。先ほどまで、あんなに肌を見せることを恥ずかしがっていたのが、こうも大胆に着替えるとは。
 が、白い肌はすぐ練絹の衣に覆われ、絹の滑るjjとした音に隠される。手早く帯を締めると、そこで公孫瓚は男へ向き直った。心なしか、顔が赤い。やはり気恥ずかしいのだろう。
 上着を肩にかけ、ようやく、ゆったりと座りなおした。
 衣服を着けると、硬い、畏るべき威厳が漂う。そもそも顔立ちが端正で、背丈も常人よりはるかに高い。近づきがたい、侵しがたい気品があった。
「やはり、貴人は違うな」
 男は感服したような声で呟く。そして、いや、と内心で訂正した。
 烈しい矜持や自信に研がれ、力で以て磨き上げられた、鋭い圭のごとき美玉のような生き物だ。
 当の公孫瓚は、男の向ける無遠慮な視線を振り払うように、彼を睨み付けた。
「不躾だぞ、貴様」
 気丈な仕草が、かえって美しい。男は微笑んだ。
「お前に見惚れていてな」
 何をばかな、と吐き捨てて、公孫瓚はふいと顔を背ける。
「そう怒るな」
「話しかけるな」
「異国の者は、みな情熱的だぞ?美しいものには美しいといい、愛する者には愛を告げる」
 余裕で杯を傾ける男を、公孫瓚はいらいらしたように見る。
「それがどうした」
「俺の言いたいこと、わからんか?」
「わかりたくもない」
 それは残念、と男は含み笑う。
 手持ち無沙汰なのか、公孫瓚は細い指で櫛の模様をなぞっている。蜜のような玳瑁の花紋が、白玉のような指先に映える。酒をあおりながら、男はそんな光景を楽しんでいた。一つ一つの仕草が美しい。それだけで佳肴だった。
 視線を感じたのか、公孫瓚が顔を上げた。神経が鋭いのだ。
「飲め」
 紅い酒の入った杯を差し出す。
「いらん」
 美しい唇はにべもない。
「眠れるぞ」
「眠る気になれぬ」
 この上ない美貌を崩すことなく、素っ気ない物言いをする。
「酔い潰されるのが怖いか?」
 言い当てられたのだろう。公孫瓚は黙って、視線を櫛へ落とした。長く濃い睫が、目元に鮮やかな影を投げる。
「手荒なことをして、すまなかった」
 ふと、男が呟いた。いらえは期待していなかった、が――
「お前は俺を殺さぬということがわかった。それなら、もう言うべきことはない」
 低く、静かに答えてくれた。
「夜が明けたら、ここを発つ。火を借りるぞ」
 たったそれだけの佳人の言葉に、男の胸がじわりと熱く喜びに温められていく。
 絹と火に温められ、肌にぬくもりを取り戻したことで、公孫瓚の思考は少しずつ、眠りへと引き込まれていった。
「すまんな……必ず、朝まで守るから…」
 囁きながら、優しく銀色の髪を梳き撫でる。眠った体の重みを抱きかかえながら、男は静かに、公孫瓚を横たえた。
 袷から白い櫛が滑り落ちた。
 男は、ゆっくりと首を振り、火の側へ番をするために戻った。




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