胸に響く疼痛に喘いで目を覚ますと、ふわりと柔らかな感触。ぼんやり視線を彷徨わせる公孫瓚の目に、赤くはぜる火が映る。自分の状況を把握しなければと、目を動かしたとき、 「大人しくしていろ」 のんびりとした声が聞こえた。 あの男だ。 「貴様…!」 身を起こすと、視界に短刀が映った。柄をつかみ、その勢いに乗せて突きかかる。 次の瞬間、男は身を沈め、公孫瓚の足を払った。 「っ!」 受身を取ったものの、右肩を強打した。骨に響くような痛みに顔を歪めたところへ、ぬっと大きな影が覆いかぶさる。 「大人しくしろと言っているだろう。あまり煩わすと……」 男は唇を歪めると、取り上げた刀子を逆手に握る。固く拘束する左手に、更に力が込められたとき、公孫瓚は本能的に男の意図を感じた。 「放せ!」 男の右手が勢いよく動き、公孫瓚は反射的に男の目――青白く輝く目だけを見つめた。 刺し殺される。そう覚悟したとき、しかし、予想していた痛みも冷たさも衝撃もなく、ただ乾いた音が耳朶を打つ。 張り詰めていた呼吸を戻すと、目を開けた。頭上で、男が微笑している。が、先ほどの残虐さはなく、どこかいたずらっぽい、子どもじみてさえいるような笑顔だった。 男が笑ったまま顎をしゃくる。その方向を見ると、やや離れた木の幹に刀子が突き立っていた。 呆然と自分を見つめる公孫瓚に、男は人の悪い笑みを見せた。 「なかなか、いい突きだったぞ。慣れているな」 誉められているのだろうが、嬉しくはない。何と答えてよいかわからず、公孫瓚はふいと視線をそらした。その反応に苦笑しつつ、公孫瓚の白く尖った顎を掴み、自分のほうを向かせた。 「誰が教えた?」 男の扱いに、公孫瓚は目元を朱に染めて睨みつけたが、短く、答えた。 「我流じゃ」 ほう、と、男は感嘆したような声を上げる。 「自身で、な。見かけによらず、やるじゃないか」 そう言うと、ようやく公孫瓚の両手を解放し、体を離した。 痛みに軽く眉をしかめ、公孫瓚は腕を下ろす。手首には真っ赤な跡が残り、青白い肌だけに痛々しかった。 そこで初めて男の顔がはっきりと見えた。 青白い、雪空や月を思わせる瞳が、焚き火に赫くきらめいていた。その瞳の持つ、強い何かに吸い込まれそうになる。 魅入られたように佇む公孫瓚を見つめながら、男は立ち上がった。 ふと、ゆるい風が吹く。 髪も肌も濡れたままで、しかも先ほどからの抵抗で汗ばみ、公孫瓚は思わず身を震わせた。 そこで改めて、自分が何もまとわず、裸をさらしていることに気付く。自分の状態を再確認すると、急激に羞恥が沸き起こった。痛む体を無理やり起こし、男の目から肌を隠そうとする。 その様子を見て、男は笑った。まるで、親しい縁者と話すような、朗らかな声で。 「今更恥ずかしがるな。散々、見せただろう」 その言葉に、公孫瓚の顔が真っ赤になった。男に背を向けた。 肌が明るいのは、焚火が照り映えているだけではなかろう。震えを止めたくとも、しんと下がる夜気がそれを許さない。 流れるような銀髪が、体を半ば覆い隠している。濡れ髪に白い肌が映える光景は、見ているだけで心地よい。 何より、均整の取れたその体。服を着ているときはあまり判らないが、彼が武芸をたしなむことを物語っていた。 だが、それでいながら、どこか妖艶な印象すら受けるのは、この美しい男の生得のものなのか。 「何を見ている……」 肌に触れる視線が疎ましいのか、公孫瓚は苦しそうに呟く。 「惨めだと、嗤うか」 声は低く、か細いが、唇を食いちぎるような気迫がある。 屈辱だろう。得体の知れぬ男に威圧され、裸のままなすすべもない。 知らず知らず、男の唇は満足そうな笑みを溜めていた。 「美しいな……」 「何?」 公孫瓚は目だけを動かし、こちらを見た。その瞳は、すでに強い光を取り戻しつつある。 男は軽く首を振る。 「いや、寒かろうと思ってな」 そういうと、傍らの箱から何枚か布を引っ張り出し、公孫瓚へ放り投げた。 「その髪、きちんと拭え。風邪をひくぞ」 言われずとも、と、公孫瓚は布を取る。そもそも、こいつのせいでこんな思いをしているのだ。このまま寒さを耐えるより、早く体を温めたいという本能的な欲求の方が強い。思い切って立ち上がると、丹念に肌を拭い始めた。 乾いた布の感触が心地よい。水を吸ってしっとりと重い髪も、柔らかく包んで水気を取る。 あらかた拭き終わると、顔にかかっていた乱れ髪を払った。丁寧に拭いたつもりだが、長さが長さだけに、ところどころ縺れている。 しばらく逡巡していたが、思い切って問うて見る。 「櫛は、ないか」 何気なく顔を向けると、男はあちらを向いて杯を傾けていた。彼なりに気を遣っていたらしい。 「櫛か。ああ、その髪は難儀だな」 そう言って、また荷物の山をごそごそとかき分ける。 「そら」 ひょいと投げられ、慌てて受け止める。見れば、象牙に玳瑁を嵌めた高価な櫛だ。こんな宝物を、気軽に放り投げてよこす心がわからない。 落としたらどうするつもりだったのだろう。 少しずつ毛筋を梳きながら、公孫瓚は考えていた。 「この程度なら、反応できると思っていた」 自分の心を読んだような声に、公孫瓚はぎょっとして男を見た。 「武術を心得ていれば、それぐらい、なんでもなかろう」 男は、そう言って笑う。 何と言うか、公孫瓚の理解できる範疇を超えている。 そのまま無言で、公孫瓚は髪を梳き続けた。新しい滴が、梳られた先からとめどなく零れ落ちる。 規則的な作業は、人を無心にさせる。薪のはぜる音だけを聞きながら、白い櫛が皎い髪を滑っていく。 きちんと梳き終わると、布で髪を包み、溢れる滴を絞り取った。あとは自然に乾かすしかなかろう。 見れば、男は再びあちらを向いている。公孫瓚の唇が、はじめてあえかな笑みを浮かべた。 「終わった」 その声に、男は首をめぐらす。 きちんと梳かれた髪が炎を映し、肩にはおられた布は象牙の櫛を持つ手が留める。 一幅の絵であった。 先ほどよりも、公孫瓚の表情は柔らかいように思える。赤い炎に照らされた唇は、心なしか笑んでいる気がした。 「どうした?」 沈黙したままの男を訝しみ、公孫瓚は声をかけた。その声に、男は我に返って苦笑する。 「いや……。着替えをやろう」 例のごとく、脇の荷物から何かを引っ張り出す。 素の衣と、黄い絹の表着、紫練の帯。ふわりと柔らかな手触りが心地よい。 櫛といい衣類といい、この男の持ち物はいかにも放浪する者に不釣合いだった。 「お前、何者だ?」 絹と男を交互に見つめた公孫瓚は、心なしか硬い声で尋ねた。 盗品の類であれば、身につける気はなかった。そんな心中を見抜いたのだろう。男は低く笑った。 「案じるな、交易品を買い取ったまでだ」 早く着ろ、と促され、半信半疑ながらも服を広げる。 と、公孫瓚はくるりと背を向け、はおっていた布を取る。白い腕や腰の線が、闇夜と炎のはざまに皓く浮かび上がった。 さすがの男も、こんな光景は予想していなかった。先ほどまで、あんなに肌を見せることを恥ずかしがっていたのが、こうも大胆に着替えるとは。 が、白い肌はすぐ練絹の衣に覆われ、絹の滑るjjとした音に隠される。手早く帯を締めると、そこで公孫瓚は男へ向き直った。心なしか、顔が赤い。やはり気恥ずかしいのだろう。 上着を肩にかけ、ようやく、ゆったりと座りなおした。 衣服を着けると、硬い、畏るべき威厳が漂う。そもそも顔立ちが端正で、背丈も常人よりはるかに高い。近づきがたい、侵しがたい気品があった。 「やはり、貴人は違うな」 男は感服したような声で呟く。そして、いや、と内心で訂正した。 烈しい矜持や自信に研がれ、力で以て磨き上げられた、鋭い圭のごとき美玉のような生き物だ。 当の公孫瓚は、男の向ける無遠慮な視線を振り払うように、彼を睨み付けた。 「不躾だぞ、貴様」 気丈な仕草が、かえって美しい。男は微笑んだ。 「お前に見惚れていてな」 何をばかな、と吐き捨てて、公孫瓚はふいと顔を背ける。 「そう怒るな」 「話しかけるな」 「異国の者は、みな情熱的だぞ?美しいものには美しいといい、愛する者には愛を告げる」 余裕で杯を傾ける男を、公孫瓚はいらいらしたように見る。 「それがどうした」 「俺の言いたいこと、わからんか?」 「わかりたくもない」 それは残念、と男は含み笑う。 手持ち無沙汰なのか、公孫瓚は細い指で櫛の模様をなぞっている。蜜のような玳瑁の花紋が、白玉のような指先に映える。酒をあおりながら、男はそんな光景を楽しんでいた。一つ一つの仕草が美しい。それだけで佳肴だった。 視線を感じたのか、公孫瓚が顔を上げた。神経が鋭いのだ。 「飲め」 紅い酒の入った杯を差し出す。 「いらん」 美しい唇はにべもない。 「眠れるぞ」 「眠る気になれぬ」 この上ない美貌を崩すことなく、素っ気ない物言いをする。 「酔い潰されるのが怖いか?」 言い当てられたのだろう。公孫瓚は黙って、視線を櫛へ落とした。長く濃い睫が、目元に鮮やかな影を投げる。 「手荒なことをして、すまなかった」 ふと、男が呟いた。いらえは期待していなかった、が―― 「お前は俺を殺さぬということがわかった。それなら、もう言うべきことはない」 低く、静かに答えてくれた。 「夜が明けたら、ここを発つ。火を借りるぞ」 たったそれだけの佳人の言葉に、男の胸がじわりと熱く喜びに温められていく。 絹と火に温められ、肌にぬくもりを取り戻したことで、公孫瓚の思考は少しずつ、眠りへと引き込まれていった。 「すまんな……必ず、朝まで守るから…」 囁きながら、優しく銀色の髪を梳き撫でる。眠った体の重みを抱きかかえながら、男は静かに、公孫瓚を横たえた。 袷から白い櫛が滑り落ちた。 男は、ゆっくりと首を振り、火の側へ番をするために戻った。 |