写本

□夜月
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 それほど広くもない湖のほとりに、一つの騎影があった。
 馬から下りると、白い月影に導かれるように、ゆっくりと水辺へ歩みだした。
 その影は、紅かった。全身に朱を浴びているがごとく、真っ赤に染まっていた。髪も衣装もずっしりと血を吸い、重いことこの上ない。
 白い頬にまで返り血が飛び、歩くたびに足跡が赤くぬかるんだ。
 夜盗の一群を斬った。それは別にどうでもいい。ただ、今回は立ち回りをしくじり、大量の返り血を浴びてしまった。着替えはあるが、頭髪まで血が染みたまま、新しい服を着るのはごめんだ。
 血塗れの衣服は、思ったよりも脱ぐのに手間取った。特に、組紐は血を吸ってふくれ、結び目が固く絡んでいる。
 苛立った公孫瓚は、足に縛り付けた護身用の刀子で、帯ごと断ち切った。どさりと重い音がして、紅い服が地に落ちる。ようやく、濡れた不快な感触を脱ぎ捨てられた。
 刀子を足に結え直し、そのまま水中に身を沈める。手や首、頬に飛び散った赤い名残は、溟い湖面に漂い、やがて薄れ、溶けていった。
 最初は竦むほど冷たいと感じ水も、慣れてしまえば盛夏近い季節のこと、肌を滑るに心地よかった。
 黒い水に皎い髪が泳ぐ。水面へ身を起こせば飛沫が月明を弾き、夜目にもまばゆく輝いた。
 公孫瓚は本能的に、近づく気配を感じた。
「誰じゃ」
 ぴしりと叩き付けるような誰何の声。
 厳しく鋭い口調に、男の足が本能的に止まる。
 そして、見惚れた。
 月を背負い、白い肌に長い銀髪をまとう姿。冴え冴えと整った、清らかな中にも烈しさをたたえる美貌。
 それでいて、人を怯ませるほどの威厳、威圧感。
 何も答えず佇む影に、公孫瓚は刀子を抜いて構えた。月影を受けて、研がれた刃が光る。
「答えよ」
 有無を言わせぬ口調。支配することを知る者が、よくそんな話し方をする。
 そして、目の前の佳人は、実にそれが様になる。
 その強い語気と共に、すらりと抜き身を構える姿。正式に訓練を受けただろう、引き締まった挙措。
 美しかった。人品卑しからぬ佳人。欲すれば手に入るだろうか、と。

 男の思惑など、知るはずもない。自分が不利だということを、公孫瓚は百も承知していた。
 間合いで遥かに劣る刀子、動きにくい水中、そして無防備な自身。
 それでも、相手を知らぬうちに屈することを、公孫瓚の矜持は許さなかった。
「問いに答えよ。それ以上近づけば、こちらとて容赦はせん」
 相手の動きを注視しつつ、公孫瓚は言葉を叩き付けた。
 ようやく、返答があった。
「俺は一介の客子だ。お前こそ、こんな夜更けに、こんな場所で沐浴とは、十分に怪しかろう」
 実に堂々としていた。声に一点の曇りもない。
 だが、公孫瓚は警戒を緩めない。男の手が、佩刀に掛かっている限りは。
「客子というなら、佩刀から手を離せ。」
 男は微苦笑して、刀ごと地面に置いた。そうして、再び公孫瓚に向き直ると、不敵に笑った。
「お前なら、素手でも十分だな」
「何……?」
 言うや否や、男はざぶざぶと水の中を歩いてくる。
 公孫瓚は一瞬、あっけに取られた。が、深みへ逃れるわけには行かない。足場をしっかりと捉え、手に力を込めた。
 その張り詰めた空気を、男の肌は感じ取る。あと十歩といった距離。
 瞬間、刃が闇を噛んだ。勢いよく、安定した重みと共に突き出された一撃が、男の腹を襲う。が、男は驚異的な身のこなしで、それを避けた。公孫瓚は咄嗟に影を追い、振り向きざまに薙ぐ。
 しかし、足元が悪かった。男の首を狙った第二撃をかわされ、振り抜いた勢いで胴が空く。
(しまった…!)
 男の体が低まり、虎のように胸元へ飛びかかってきた。
 強烈な当身を食らって、さしもの公孫瓚も昏倒した。男は難なく受け止めると、半ば意識を失った公孫瓚を軽々と担ぎ上げ、ざぶざぶと水を分け、岸辺へ戻っていった。




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