扉の奥は薄暗かった。 静かに足を踏み入れれば、残り香が薄く漂う。 大きな屏風を置き、御簾を下げた向こう、長椅子の上で、目指す人は眠っていた。 薄い氈の毛布を引っかけ、小さな寝息を立る無防備さ。 音もなく歩み寄った。 静かに閉じている唇を、そっとついばんだ。思いのほか柔らかく、あたたかい。わずかに乾き、ひび割れている。唇を離すついでに、そっと舐めた。 顔を上げると、赤く大きな瞳がこちらを見つめていた。 「舌を食いちぎられるとは思わなんだのか」 劉虞は、少し目を細めた。笑ったのだ。 「それは、考えてもみなかった」 「愚かな…」 寝具が動く。ふわりと銀髪が薄闇に揺れ、銀色の頭が喉元へ滑り込んだ。 「愚か者め、こうして喉笛を噛み切ることもできる」 咽頭に歯のあたる感触がする。 劉虞の視界では、公孫瓚の表情は見えない。 「俺を哀れむのか」 「そんなつもりはないが…」 劉虞は、少し頭を振った。 「あなたは、強くありすぎた」 倒れまい屈すまい、弱みを見せまいと強く立つことが、かえって内の脆さを浮き彫りにしている。 限界を超えた弓弦と同じだ。今にも断ち切れそうな有り様は、不安ばかり募らせる。 「頼れとは言わない。弱みを見せよと言うつもりもない。…ただ、あなたは苦しくないのか、それが気がかりだ」 瞬間、赤い瞳が怒りに燃え上がった。 「馴れ馴れしく諭すな、不愉快じゃ…!」 「…すまない」 「弱みを見せろというか」 「そんなつもりではない」 「俺を惨めにさせるな!」 吐き捨てて、公孫瓚は額に手をやった。 うなだれた首筋を、豊かな銀髪がばさりと覆う。 自分を落ち着かせているようにも、悩み沈思しているようにも見える。 「伯珪…」 「うるさい、少し、黙って静かにしておれ」 劉虞は、言われたとおり口をつぐんだ。じっと次の言葉を待っている。 公孫瓚が激しくかぶりを振った。 「すべて容れようとする、貴様が疎ましい…!」 揺れる銀髪の下から伸びる腕が、劉虞を突き放した。 髪の隙間から、赤い目が覗いていた。不信と恐れのまま、劉虞を監視している。 「おとなしく従えばいいものを…!俺を怨んで怒りの言葉ひとつでも吐けばよいものを…!俺の前に膝を屈して、跪けばよかったのじゃ!そうすれば…!そうすれば!」 深い嘆息。悲鳴のように叫び、顔を覆う。 「そうすれば、今頃は…!」 慟哭のような言葉が、細く暗く、薄暗い室内に消えていく。 「貴様が目障りじゃ…!何もかも受け容れて許すように笑う貴様が、不快で忌まわしい!それが…俺をどんなに苦しめるか…!」 違う、と解っている。 自分の頑なさ、狭量さ、過去に拘泥して人を受け入れられない意固地さ。 それを跳ね除けたはずの、自身の誇り高さが、他者を容れないための鎧だとは、理解している。 それでも、公孫瓚は自らの枷を断ち切れなかった。 逃れられなかったのだ。 笑って手を差し伸べる劉虞の、その優しさに、誰よりもすがろうとし、誰よりも憎んだ。 そして、終には自ら、その手を切り裂いた。 「すべて、解っているのに…!」 それが、自分の意地や嫉妬、弱さだと解っていても、憎まずにはいられなかった。 解っているからこそ、誇り高い彼は苦しみ続けている。 そして、また別の彼は、受け容れる腕を求めている。 「解っているのに…」 「ああ……私も、解っている」 思わず、劉虞は答えていた。 哀しくも苦しい告白に、言葉が口をついて出た。 「賢明な道を解っていても、心の示す道を行く…それも、また人だ…」 怒りを煽ると解っていても、答えずにはいられなかった。 公孫瓚は、何も言わなかった。 ただ、血のように赤い、丸い瞳が、じっと劉虞を見つめている。 泣いてはいなかった。 その赤い瞳が、血のように赤い涙をためているように見えた。 劉虞が、黙って、唇を奪い、抱き寄せても、公孫瓚は声ひとつ上げない。 その手が頬を撫でたとき、公孫瓚は、やはり黙って、劉虞の白銀の前髪を握った。そのまま指を滑らせ、形のよい頭を撫で、薄い肩をつかむ。 そのままで抱きあい、どれほどたった頃か。 ふと、劉虞が身を起こす。 温かい唇の感触を失い、公孫瓚は劉虞の髪を引っ張った。 「…抱かんのか」 「抱きたいと、言ったらどうする?」 「お前も君子ではないと、思うだけじゃ」 手に手を添えて、劉虞は笑った。 「それなら、抱きたいと言っておくのだった」 公孫瓚の赤い瞳が、大きく瞬いた。 ゆるんだ指の隙間から、銀色の髪が逃げていく。 闇へ溶けていくようだ。 「待て、伯安!」 遠い衝立の向こうで、扉が大きな音を立てて開いた。 夜風が微かな泣き声を上げて、寝室へ入り込んでくる。 人の体に触れていたぬくもりは、もう跡形もなく、公孫瓚は自分の手を――自分が殺した死者の髪を握っていた手を、見た。 「俺は、お前を…」 end / background“対象a” |