写本

□断雲
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 扉の奥は薄暗かった。
 静かに足を踏み入れれば、残り香が薄く漂う。
 大きな屏風を置き、御簾を下げた向こう、長椅子の上で、目指す人は眠っていた。
 薄い氈の毛布を引っかけ、小さな寝息を立る無防備さ。
 音もなく歩み寄った。
 静かに閉じている唇を、そっとついばんだ。思いのほか柔らかく、あたたかい。わずかに乾き、ひび割れている。唇を離すついでに、そっと舐めた。
 顔を上げると、赤く大きな瞳がこちらを見つめていた。
「舌を食いちぎられるとは思わなんだのか」
 劉虞は、少し目を細めた。笑ったのだ。
「それは、考えてもみなかった」
「愚かな…」
 寝具が動く。ふわりと銀髪が薄闇に揺れ、銀色の頭が喉元へ滑り込んだ。
「愚か者め、こうして喉笛を噛み切ることもできる」
 咽頭に歯のあたる感触がする。
 劉虞の視界では、公孫瓚の表情は見えない。
「俺を哀れむのか」
「そんなつもりはないが…」
 劉虞は、少し頭を振った。
「あなたは、強くありすぎた」
 倒れまい屈すまい、弱みを見せまいと強く立つことが、かえって内の脆さを浮き彫りにしている。
 限界を超えた弓弦と同じだ。今にも断ち切れそうな有り様は、不安ばかり募らせる。
「頼れとは言わない。弱みを見せよと言うつもりもない。…ただ、あなたは苦しくないのか、それが気がかりだ」
 瞬間、赤い瞳が怒りに燃え上がった。
「馴れ馴れしく諭すな、不愉快じゃ…!」
「…すまない」
「弱みを見せろというか」
「そんなつもりではない」
「俺を惨めにさせるな!」
 吐き捨てて、公孫瓚は額に手をやった。
 うなだれた首筋を、豊かな銀髪がばさりと覆う。
 自分を落ち着かせているようにも、悩み沈思しているようにも見える。
「伯珪…」
「うるさい、少し、黙って静かにしておれ」
 劉虞は、言われたとおり口をつぐんだ。じっと次の言葉を待っている。
 公孫瓚が激しくかぶりを振った。
「すべて容れようとする、貴様が疎ましい…!」
 揺れる銀髪の下から伸びる腕が、劉虞を突き放した。
 髪の隙間から、赤い目が覗いていた。不信と恐れのまま、劉虞を監視している。
「おとなしく従えばいいものを…!俺を怨んで怒りの言葉ひとつでも吐けばよいものを…!俺の前に膝を屈して、跪けばよかったのじゃ!そうすれば…!そうすれば!」
 深い嘆息。悲鳴のように叫び、顔を覆う。
「そうすれば、今頃は…!」
 慟哭のような言葉が、細く暗く、薄暗い室内に消えていく。
「貴様が目障りじゃ…!何もかも受け容れて許すように笑う貴様が、不快で忌まわしい!それが…俺をどんなに苦しめるか…!」

 違う、と解っている。
 自分の頑なさ、狭量さ、過去に拘泥して人を受け入れられない意固地さ。
 それを跳ね除けたはずの、自身の誇り高さが、他者を容れないための鎧だとは、理解している。
 それでも、公孫瓚は自らの枷を断ち切れなかった。
 逃れられなかったのだ。
 笑って手を差し伸べる劉虞の、その優しさに、誰よりもすがろうとし、誰よりも憎んだ。
 そして、終には自ら、その手を切り裂いた。

「すべて、解っているのに…!」
 それが、自分の意地や嫉妬、弱さだと解っていても、憎まずにはいられなかった。
 解っているからこそ、誇り高い彼は苦しみ続けている。
 そして、また別の彼は、受け容れる腕を求めている。
「解っているのに…」
「ああ……私も、解っている」
 思わず、劉虞は答えていた。
 哀しくも苦しい告白に、言葉が口をついて出た。
「賢明な道を解っていても、心の示す道を行く…それも、また人だ…」
 怒りを煽ると解っていても、答えずにはいられなかった。

 公孫瓚は、何も言わなかった。
ただ、血のように赤い、丸い瞳が、じっと劉虞を見つめている。
 泣いてはいなかった。
 その赤い瞳が、血のように赤い涙をためているように見えた。

 劉虞が、黙って、唇を奪い、抱き寄せても、公孫瓚は声ひとつ上げない。
 その手が頬を撫でたとき、公孫瓚は、やはり黙って、劉虞の白銀の前髪を握った。そのまま指を滑らせ、形のよい頭を撫で、薄い肩をつかむ。
 そのままで抱きあい、どれほどたった頃か。
ふと、劉虞が身を起こす。
 温かい唇の感触を失い、公孫瓚は劉虞の髪を引っ張った。
「…抱かんのか」
「抱きたいと、言ったらどうする?」
「お前も君子ではないと、思うだけじゃ」
 手に手を添えて、劉虞は笑った。
「それなら、抱きたいと言っておくのだった」
 公孫瓚の赤い瞳が、大きく瞬いた。
 ゆるんだ指の隙間から、銀色の髪が逃げていく。
 闇へ溶けていくようだ。

「待て、伯安!」

 遠い衝立の向こうで、扉が大きな音を立てて開いた。
 夜風が微かな泣き声を上げて、寝室へ入り込んでくる。
 人の体に触れていたぬくもりは、もう跡形もなく、公孫瓚は自分の手を――自分が殺した死者の髪を握っていた手を、見た。

「俺は、お前を…」





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