――官渡にて、袁軍大敗―― その報告を漏れ聞いたとき、顔から血の気が引いた。 「孔璋…!」 数か月前、名残を惜しむように挨拶を交わし、去っていった姿が脳裏によぎった。 公孫瓚は神祇を信じていない。 しかし、祈った。何とも知れぬ何かに祈った。 これ以上、奪わないでくれ――と。 官渡より帰還した軍の中に、陳琳はいなかった。 彼だけではない。幕僚の大幹部たちは、賢明な者も心根の悪しき者も、ほとんどいなくなっていた。 あるいは、それも仕方ないことだと、冷めた目で見つめる自分がいた。 袁紹の抱えていた光と闇、裏表が、その軍へ恐ろしく正確に投影されていたのだ。 「お前は、どうしたのじゃ…」 陳琳は、光でも闇でもない。悪ではないが善とも言いがたい。 彼は生きているのだろうか。 「孔璋…」 扉が開いて、戦塵に汚れながらも、不遜な笑顔で佇む陳琳が立ってはくれないか。 右に跳ね上がるような癖字の書簡が鄴から届いてはきまいか。 曹操に仕えることになったのなら、それでもいい。 生きていてほしい。 「孔璋…!」 びくっと体を震わせて、陳琳は後ろを振り向いた。 「どうしなすったね」 分厚い真っ黒な衣装の、無表情な軍師と目が合った。郭奉孝というらしい。 郭嘉は、この一筋縄ではいかなさそうな新顔に、ちょっと興味を持った。 「誰かに呼ばれたか?」 「そんな、ところです……」 「ほう…」 切れ長の目が眠そうに細まった。陳琳は知らないが、郭嘉が興味を持ったときにやるくせだ。 「あんたにお別れを言ったのかもしれないな」 「は?」 「生きていてほしいと、祈ってるのかもしれない」 陳琳は息を呑んだ。思わず、「伯珪」と呟きそうになるのを、ぐっとこらえた。 「……祭酒…あんた…」 郭嘉は何食わぬ顔で馬を進め、その後姿を陳琳は呆然と見送った。 「伯珪…」 華北での伸張を絶たれた袁紹が、失意のうちに憂死したのは、それから二年後の建安七年。 鄴が陥落し、中原から袁家の名が消えるのは、建安十年のこと。 後に「建安七子」として文才をほしいままにする陳琳と、旧友の側で流転と隆盛を見守り続けた公孫瓚とは、それからついに再会することはなかった。 |