写本

□灌浸
2ページ/2ページ





――官渡にて、袁軍大敗――

 その報告を漏れ聞いたとき、顔から血の気が引いた。
「孔璋…!」
 数か月前、名残を惜しむように挨拶を交わし、去っていった姿が脳裏によぎった。
 公孫瓚は神祇を信じていない。
 しかし、祈った。何とも知れぬ何かに祈った。
 これ以上、奪わないでくれ――と。

 官渡より帰還した軍の中に、陳琳はいなかった。
 彼だけではない。幕僚の大幹部たちは、賢明な者も心根の悪しき者も、ほとんどいなくなっていた。
 あるいは、それも仕方ないことだと、冷めた目で見つめる自分がいた。
 袁紹の抱えていた光と闇、裏表が、その軍へ恐ろしく正確に投影されていたのだ。
「お前は、どうしたのじゃ…」
 陳琳は、光でも闇でもない。悪ではないが善とも言いがたい。
 彼は生きているのだろうか。
「孔璋…」
 扉が開いて、戦塵に汚れながらも、不遜な笑顔で佇む陳琳が立ってはくれないか。
 右に跳ね上がるような癖字の書簡が鄴から届いてはきまいか。
 曹操に仕えることになったのなら、それでもいい。
 生きていてほしい。

「孔璋…!」

 びくっと体を震わせて、陳琳は後ろを振り向いた。
「どうしなすったね」
 分厚い真っ黒な衣装の、無表情な軍師と目が合った。郭奉孝というらしい。
 郭嘉は、この一筋縄ではいかなさそうな新顔に、ちょっと興味を持った。
「誰かに呼ばれたか?」
「そんな、ところです……」
「ほう…」
 切れ長の目が眠そうに細まった。陳琳は知らないが、郭嘉が興味を持ったときにやるくせだ。
「あんたにお別れを言ったのかもしれないな」
「は?」
「生きていてほしいと、祈ってるのかもしれない」
 陳琳は息を呑んだ。思わず、「伯珪」と呟きそうになるのを、ぐっとこらえた。
「……祭酒…あんた…」
 郭嘉は何食わぬ顔で馬を進め、その後姿を陳琳は呆然と見送った。

「伯珪…」



 華北での伸張を絶たれた袁紹が、失意のうちに憂死したのは、それから二年後の建安七年。
 鄴が陥落し、中原から袁家の名が消えるのは、建安十年のこと。
 後に「建安七子」として文才をほしいままにする陳琳と、旧友の側で流転と隆盛を見守り続けた公孫瓚とは、それからついに再会することはなかった。





前へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ