写本

□灌浸
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 これが、あの男だというのか。
 勇敢なる騎馬隊を叱咤し、夷狄を震え上がらせた将軍、閣下と仰がれた身だというのか。
 冬の曇天と峻厳な風を映したような銀髪が、今はぬかるみに踏みにじられた霜を思わせる。


 眼下に横たわる男は、時折、指先を痙攣させて、うつろに呼吸していた。
 僅かに上下する胸や薄く開いた唇、濁った双眸のふちまで、何とも知れぬ体液で汚れ、異臭を放っていた。
 ありていに言えば、ひどく汚らしく、見苦しい。
 陳琳は、黙って、用意させたぬるま湯をぶっかけた。
「あんた、そんな形(なり)でもきれいだな」
 呟いて、もう一度。今度はいくらか丁寧に。
 しばらくためらっていたが、手巾を取り出し、顔にこびりついた汚れを拭ってやる。
 そのとき、初めて、公孫瓚の顔に変化が現われた。
 茫洋と沈んだ目を潤ませて、静かに泣いていた。
「あんた、きれいだ」
 頬を拭う手巾に、熱いしみが広がっていた。


 敗将――正確には、自害しかけていたのを捕らえたのだが、それから一晩も経たないうちに彼が受けているという、おぞましい処遇を聞いて、陳琳はわけもなく胸がざわめいた。
 きっと主君は、途方もない執着と愛情で以て、散々に手こずらされたはずの宿敵を生け捕らせた。
 そして、せっかく手に入れたのに反抗的な彼を、懲らしめるため無邪気に陵辱を命じたに違いないのだ。
 それが陳琳には理不尽なことに思えて仕方なかった。もっと言えば、許せなかった。
 人となり狷にして傲慢な陳琳が、曲がりなりにも人を思う心を抱いたのは、これが初めてだった。


「――そなた…」
 はっと、手が止まる。
 赤い瞳が、こちらを見ていた。
「あんまり、喋らんほうがいいぞ。口が切れてる」
 何度も張られたのか、赤く脹れた頬が痛々しい。
 そっと額を撫でられて、公孫瓚は静かに口を閉じた。
 代わりに、いくらか生気を取り戻した瞳が、こちらへ問うていた。
「何で助けた、って顔だな」
 美しく潤んだ目が、うなずいた。
「一目惚れ、かね…。界橋で見たんだ、あんたを」
 公孫瓚が複雑な表情を浮かべる。彼にとっては、嬉しくない場所だろう。
「だが、俺は惚れたんだ。硬く唇を引き結んで、じっと戦場を見つめ、溢れる激情を抑え込んでるあんたに。俺はあんたをきれいだと思った、美しいと。中も、外もだ。あんたは懐附させる人ではないかもしれん。だが、あんたは確かに愛すべき人だ」
 我ながら、わけのわからぬことを言っていると思う。
 しかし、ここまで陳琳を突き動かす感情を解りやすく述べるなど、到底できそうにない。
 こういう感情は、誰も説明がつかぬものだと思っている。

 不思議な男だと、公孫瓚は思った。
 優しく額を撫でてくれるが、口調だけは熱っぽい。
 言ってもどうにもならないからこそ、いっそ全てを吐露している――そう感じた。
 絶望の中で静かに差し伸べられる優しさが、そっと意識を手放させる。
 恐らく、次に目覚めたとき、この不思議な紳士はいなくなっているだろう。
 それでも、いつか彼が迎えにきてくれることを、願わずにはいられなかった。




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