写本

□水浸く屍
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「随分と、お変わりになりましたね、伯珪兄」
本音でものを言うのは久々だった。
いたたまれなくなるぐらい、変わってしまったと思う。
ばかみたいな規格の高楼は、薄ら寒いほど風通しがいい。
そのはずなのに、ここは夜のように暗い。空気が重く、淀んでいる。
ここには、生きている命がない。
真っ暗な宮室の中で、伯珪はどうやって息をしているのだろう。

「どうやって入った」
たっぷり沈黙した後で、ようやく口を開いた伯珪が言ったのは、それだけ。
ささくれ立った視線が、こちらを監視するように突き刺さる。
ともし火の明かりにもぎらぎらと光るそれが、不愉快だった。
「冷たい仰りようですね、抜け道を教えてくださったのは伯珪兄ですよ?」
「抜け道などない。そんなものは最初から作っておらん」
「一度入れば二度と出る必要がない、ですものね」
「貴様……」
刺のある物言いが癇に障ったのか、伯珪はいっそう鋭く、凄みのある目で睨みつけてくる。
ほんとうにいやな目だ。暗くて、ただ恐ろしいだけだ。
「あなたの“義弟(おとうと)”さんから頼まれたのですよ。お別れの挨拶をね…!」
おおげさな身振り手振りで伝えた内容は、しかし、伯珪にとってさしたる感慨を呼び起こさなかったらしい。
彼はほんの少し、息を吐いただけだった。
「そうか」
冷淡な反応が、かえって不満だ。
子龍が去ってしまった今、もう誰がいなくなろうと――彼からすれば“裏切ろうとも”――興味がないのだろうか。
「なぜ、そうも平然としているんです」
冷たく無気力な伯珪を前にして、俺は理不尽な苛立ちを感じていた。
もっとも、伯珪にとっても、誰が見ても理不尽に思うだろうというだけの話だ。
俺は孤独に打ちひしがれた伯珪が欲しいのだ。
すがるものを求めて、俺を必要とするほどに弱った彼が。
そうでもしなければ、彼は決して俺のものにはならないから。
「ねえ、伯珪兄」
あなたは気づいているのだろう?
己の立場を変えまいと貫いた誇りが、かえってあなたを縛りつけ、追い込んできたことに。
(でも、今となっては、もうどうしようもない。こんな牢獄に逃げ込んでしまったのだから、もう出られない)
「そうだ、俺は何も変わってはおらん。変えてもいない……変わったのは、ただ人の心よ」
幾分、興奮した様子で反駁する伯珪兄は、傷ついた表情をしていた。
ずっと隠しおおせてきた、人に去られる痛み。
その傷が伯珪の中で血を流すのを、俺は今、確かに見ている。
「ですが、あなたは人を信じることができたはずですよ」
「玄徳、俺の前でも君子になりきるつもりか。……俺は人を信じたことなどない。少なくとも初めて会う者は」
そう、それは知っている。
だけど、一つだけ、大きく変わったことがあるだろう?
「でも、少なくとも以前のあなたは、人を信じようとはしていたでしょう」
悔しそうにこちらを睨みつける目。
少し前までの刺々しい光が和らいで、うつくしかった。
「今のあなたは、人は必ず裏切ると思っている。最初から人を信じないと誓っている人を信じる者も、またいない。ねえ、解ってるんでしょう、伯珪兄……人を変えたのは、あなたなんですよ…!」
伯珪はしばらく、怒りとか悲しみといった感情の、特に烈しい部分がせめぎあっているような表情で、こちらを見つめていた。
そうして、うめくように呟いた。
「出て行け…!」
俺は素直に従った。
深くうつむいた伯珪は、恐らくは泣いていたのではないだろうか。
でも、俺はそれを無視した。
彼自身が耐え切れなくなるまで、それまでは、孤独に苛まれてもらわなければ。

扉を閉めて、一瞬だけ聞き耳を立てたとき、低い嗚咽が聞こえた。
俺は、少しだけ後悔した。
でも、それだけだった。
みすみす死なせるつもりはないけれど、まだ早い。
伯珪が孤独に耐え切れなくなるまで、俺は手を差し伸べるつもりはない。
すがり付いて、俺を求めてくれるようになるまでは。

何もかも俺に勝っていたあなたが、ずっと欲しかった。
毅然と美しいあなたが、その実、こんなにも傷つきやすいなんて知ってしまえば、総身で抱きしめてあげたくなった。
あなたを守ってあげたいんだよ、伯珪。
だけども、あなたは決して人を信じず、すがることも屈することもしない。
だから、あなたを支える何もかもを叩き折ってやりたくなった。




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