写本

□破鏡
1ページ/1ページ

玄裳縞衣、という言葉がある。
黒い裳と白い衣。
鶴の雅称なのだという。

それはまるで、目の前にいる男のようだと思った。
銀の縫い取りを施した白い衣と、襴衫が付いた黒い裳。
その上から、黒い綾の縁取りをつけた白の打掛を重ねる。
趣味の良い意匠だ。
無駄な彩のない取り合わせが、どこか寂しげに見えるのは己だけだろう。
そういえば、自分の知る彼は、甲冑姿しか覚えていない。

と、背中に視線を感じたのか、公孫讃がこちらを振り返る。
五彩に輝く銀髪と深紅の瞳。艶やかでいて鋭い美貌の人である。
「なあ、俺と遊ばないか、伯珪」
口調は軽く、目は半ば本気で誘いをかけてみた。
が、肩に置いた手をあっさりとはねられ、にべもない拒絶が突き刺さる。
「阿呆か、貴様。痴れたことをぬかすくらいなら、編制でも考えておれ」
赤い瞳がきゅっと細められ、その険しさがたまらなく美しい。
「ああ、そんな顔するなよ……本気になっちまいそう…」
皆まで言う前に容赦ない裏拳が炸裂して、さすがにうめき声が漏れる。
「いい加減にしろ、貴様ッ!」
激昂のあまり、色の白い頬が赤く上気している。
彼は決して気短なほうではないが、その潔癖な性を逆撫ですれば、途端にこうなる。
白く冷ややかな美貌を崩してみたくて、わざと癇に障る軽口を繰り返すのだと知れば、今度はどんな怒りの表情を見せるのだろう。
「おぉ、痛え……ご丁寧に骨の部分で殴るこた無いだろう」
唇の端ににじみ出る血をぬぐい、さも、大したことはないというように笑いかけてやる。
案の定、公孫讃は鼻白んだ表情でこちらを睨みつけると、ふいと顔を背け、部屋から出て行こうとする。
真剣に怒ったところで言うことを聞く相手ではないと、知っているのだ。
まともに相手をしては時の無駄、というわけだろう。

――ああ、こいつは面白くない。

そう、面白くない。
もう少し前なら、軽口には説教、揶揄には叱責が必ず飛んできた。
延々と続く軽口と皮肉の応酬が、楽しくて仕方なかった
もっとも、自分は愉しいが、公孫讃は本気で言い返しているのだから愉しいはずは無かったろうが。
それが、最近はどうだ。
劉備との論争の不毛さを悟り、ちょっかいを出されても軽くあしらって姿を消してしまう。

面白くない、実に面白くない。

だから、開かれた扉を、後ろから押し戻してやった。
案の定、完全に気分を害した公孫讃が、ものすごい形相で振り返る。
瞳が真紅なだけにそれは迫力があったが、ここで動じて引き下がるような劉備ではない。
「何で相手してくれないの?」
「どうせ茶化すことしか考えとらんだろう。そんな奴に、真面目な答えを返す手間が惜しい」
「こいつは手厳しい」
「当然の結果じゃ。理由は答えた、俺は行くぞ」
「待てよ」
「っ…!しつこい!いい加減に…っ…!?」
噛み付くような接吻に、一瞬、呼吸を忘れた。
背中へがっしりと回された腕が動きを固定し、抵抗を封じてしまう。
辛うじて動かせることのできた右手も、相手を突き放すより早く、手首を掴まれ拘束されてしまった。
荒々しく侵入する舌は、口付ける相手の支配欲を突きつけるようだ。いたわりの欠片もない接吻で、歯が唇を傷つける。沁みるような痛みと血の臭いは不快でしかない。
舌へ徐々に伝わる血の感覚に、劉備はようやく顔を離した。勿論、腕の力は緩めない。
(こりゃあ、本気で殴られるな…)
劉備は後で加えられるだろう強烈な拳の一撃を想像していたが、当の公孫讃は乱れた呼吸を整えるので精一杯のようだ。
眉をひそめて荒く息を継ぐ、その表情は、どこか淫靡なものを感じさせた。
「ああ、やばいな…それ…」
どこか上ずった声と、視線に込められた熱を感じ取ったのか、腕の中に抱いた体が激しく身じろぐ。
構わず、突き飛ばすようにして、毛氈の敷かれた床へ押し倒した。
「この馬鹿が!放さんかっ!」
激しい怒声とともに、投げつけられた言葉。
嫌悪と侮蔑もあらわに、激しい勢いで抵抗する姿。
長身でそれなりの体格を持つ、成人の男だ。力任せに暴れる勢いは、手に余る。
この男が、心からの激情を表す様を見られることが嬉しい反面、ここまで抵抗を見せられて面白くないことも半分。
相手の細腰に跨って、下半身を完全に拘束してしまった分、上半身の抵抗はものすごく。
「痛っ……」
自分の乱れた襟元に、爪が立てられた。
加減も何もないから、細かく鋭い痛みが血とともに溢れる。こんな凶暴な動きもできるのを見て、思わず顔が笑んだ。
自分の表情に鼻白む、相手の表情を楽しんだ。
笑いながら劉備の腕が動くのを見て、公孫讃は慌ててその腕を抑えようとする。
「ほら、どうした?もっと力を入れないと、俺が勝っちまうぞ?」
挑発するように腕を振りほどこうとすれば、ならじと腕をきつく掴んでくる。
腕に爪が食い込む。その痛みに笑いながら、無理やりに腕を動かし、あわいを掴んでくつろげる。
反動で公孫讃の爪がすべり、腕に赤い筋が走った。
「痛いな。はは……面白ぇ……」
己の肌に刻まれた傷を眺め、劉備は不敵に呟く。
「貴様というやつは……何を考えてる……何を喜んでおるのだ……」
「お前、何も解ってねえのな。俺にお前が刻み付けられるんだ。よく見ろよ、まるで情事の痕だろ」
言われて、はたと公孫讃は目を見開いた。
その、一瞬の隙に相手の両手首を捻り上げ、骨が軋まんばかりに締め付けた。
「っぁ……くぅっ……」
締め上げられる苦しさに眉をひそめる、その表情に魅せられた。くつろげた衣裳の間へ手を伸ばし、直に響く鼓動を味わった。
ずっと、触れたいと、感じたいと思っていた感覚が満たされて。
「大人しくしろよ。痛むのは、嫌だろう?」
囁く声も、どこか熱を帯びてしまう。
それでも。
「血迷ったか……!このような…真似を…ッ!」
荒い息の下からは、叱責と怒り以外の、どんな言葉もない。
さもあらん、自分の行動が行動だけに。
常軌を逸しているのは、重々承知している。

でも

それでも……

「俺がどうしてこんなことをするか、本当に解らない…?」

悔しかった。
そして、返ってきた言葉は。

「解りたくもない、このような、汚らわしいっ!」

「そうかい…」

ならば仕方がない。
こうやって拒絶する、お前が悪いのだ…

「なら、仕方ないよな…」



.

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ