写本

□Beautiful world
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「お久しぶりです、兄上」

 一目で兄の不調を見抜いた曹植は、最初から気安い呼称で出迎えた。
 それに安心したのか、常よりよほど弱々しい微笑だが、曹丕は笑った。
「まだ、堅い」
「え…?」
「わからぬか」
 曹丕は、弟の髪をくしゃりと撫でた。
「兄さん、だ」
 最も近しかった時の、呼び方。
 曹植は笑って頷いた。
「はい、兄さん」


「ここが、いちばん落ち着く」
 安楽椅子に身を沈めて、曹丕はそんなことを言った。
「さようでございますか」
 その言葉が嬉しい。面映い。兄からこれほど率直に誉められるのは、久々だった。
 はにかんだように微笑む弟を見つめていた曹丕は、小さな頭をぽんぽんと軽く撫でた。
「こんな風に心から笑う者が、いない」
 寂しげな呟きに顔を上げると、いつものように思考の読めない真っ暗な瞳と目が合う。

――お寂しいのですか

 思わず聞きかけたが、こらえた。
 聞いてしまえば、それは兄の矜持をいたく傷つける。
 弱っていても、いや弱っているからこそ、誇り高い生き物は傷つくことを嫌う。
 それに、事情を詮索するのは自分の役割ではない。
 兄は、ここへ翼を休めに来たのだ。
 だから、自分はじっと、木陰を作ればよい。
「植」
「はい」
 す、と しなやかな腕が開いた。
「来い」
 待ち望んでいた腕が、すがるものを求め、開いている。
「はい」
 曹植は微笑み、その腕を、重荷を負う体を、抱きとめた。
「ご存分に」
 優しい囁きに、背中へ回された手が、きゅっと力を込めるのがわかった。

――随分と、お痩せになった

 静かに抱きしめた、その体は薄い。
 重みも、熱さえ失った体は、まるで…

――ばかなことを!

 己を叱りつけて、ただ離すまい、逃すまいと、兄の肩へ額を寄せた。
 天地の歩みは遅く、重く、それでいて唯一人に荷を負わせる。
 今、兄の周囲を覆う人々は、その荷を知っていて追わせ、それでいて歩みが遅いと責め立てる。
 自分たちが押し上げ、荷を負わせた者。その意思に逆らい、ただ自分たちの荷を押し付け、それでいて自分たちが全ての理非を握ろうとする。
 その苦しみが、誰に解ろう。
 誰が分かち合おう。
 冷酷、非情と疎まれながら、務めを枉げず、ただ平穏な治世のため身を削り、荷を負う、彼のどこを責められようか。

「兄さん」
「なんだ」
「私は、いつまでも兄さんのお側におります」
「うん」
「いつでも、いつまでも、兄さんがお望みのまま、お側におりますよ…」
 せめて、涙だけは、心ゆくまで流せるように。
 負うた悲しみを、少しでも、ここに忘れてゆけるように。
「わかって、いる」
 すがりつく腕が、愛しかった。




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